2026/09/03

キリスト教教育

生徒礼拝

生徒礼拝は、主に高3が下級生に向けて、東洋英和で学んだことをふまえて、自分の思いや伝えたいことをお話しします。
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聖書朗読:コリントの信徒への手紙一 121418
「身体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし体全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」
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 私事で恐縮ですが、わたしは料理が壊滅的にできません。分かりやすい実例をあげると、まずごぼうと生姜を間違えます。記憶に新しいのは高2の調理実習で作っていたタピオカを、誤って全てシンクに流してしまったことです。その時は土下座する勢いで謝罪すると、寛大な先生がたが慈愛の心で材料をもう一度くださったので事なきを得たのですが、わたしと同じ班だった友人には今でも頭が上がりません。
 料理だけでなく、わたしは裁縫も苦手です。同じく高2で甚平を作る際には、十六センチに裁たねばいけないところを、なぜか鋏が布を十センチに裁ってしまい、ノースリーブの甚平が出来上がってしまいました。さらに不幸だったのは、わたしの手順を参考にしながら布を裁っていた隣の友人は、彼女の布もしっかり十センチで裁たれてしまっていました。あとでしこたま文句を言われ、さすがに申し訳なかったのでハーゲンダッツを奢ったのですが、参考にする相手を間違えたのでは、と今でも思っています。
 わたしの料理スキルがゼロどころかマイナスなのは、視覚から情報を捉えたり、複数のことを同時に行ったりするのがとても難しい、というわたしの性質にあります。同じ理由で、裁縫は設計図を読み解くのに苦労します。パーツごとに組み立てるのも、わたしには難解なパズルのようなもので、毎度混乱して変なところを裁ったり縫ったりしてしまいます。
 自分が苦手とするものが思いの外多くあると知ったのは、自分は料理が向かないなと気づいたすぐ後のことでした。わたしは料理ができません。裁縫もできません。わたしは宿泊行事が苦手です。いつもと違うことが起きると途端に頭の中が掻き乱された気持ちになります。加えて空気も読めません。冗談を冗談と思えないことがほとんどです。人の話を聞くのも苦手です。つい自分が話しすぎてしまって止められないことがあります。頭で思い浮かぶ言葉を口にしようとするうちに、相手の話を遮ってしまうこともあります。
 わたしはずっと幼い頃からそうで、今は幾分か穏やかになりましたが、当時は酷いときは本当に酷かったので、育てづらい子どもだったろうと思います。わたしもどこかで自分のそういう部分を消したいと思っていました。他の人が当たり前のようにやってのけているように見えることが、なぜ自分にはこんなにも難しく思われ、そうすることができないのだろうと思い、それを自らの怠惰さと傲慢さに帰結させていました。
 わたしのこうした側面には、色々な検査をして、こうではないかという名前があります。ですが、名前があってもなくても、わたしはこういうところがあって、それは変えられるものではありません。もしかしたら今よりもっと上手く付き合っていけるかもしれませんが、それでもわたしの根源は変わりません。それは誰かが「あなたはそうではない」と否定できることではないし、わたしが「わたしはそうではない」と否定できることでもありません。治すものではなく上手く付き合っていくものであり、悪いものではなくわたしをわたしたらしめているものです。そしてそういうものは、きっと誰にでもあるのだと思います。
 今日、ここに立つにあたり、わたしは自分が何かを伝え得る人間ではないと思いましたし、わたしの一言で誰かの心を変えられると信じるのはたいへん傲慢なことだと思いました。ですので、これは単なる自戒と一つの提案ですが、世界が多様性と呼ぶものをもっとよく知ったら良いと思います。それは名も知らぬ誰かのためではなく、明日のあなたのためになるかもしれません。世の中には色々な人がいます。傷つきやすい人、大らかな人、落ち着いている人、焦りがちな人、空気が読める人、自分の芯を持っている人、それ以外にも多くの人がいますね。この学校にも色々な人がいます。あなたのクラスにも色々な人がいます。そしてあなた自身もその色々な人の中の一人です。「色々な人」や「多様性」という言葉は、存外身近に、それもすぐ横にあるものです。知っていれば、それが恥ずべきことではないと胸を張ることができます。不当な扱いを受けたときに怒ることができます。そうかもしれないと言う人に、無意識の礫(つぶて)ではなく安らかな木陰を与えられます。
 今日の聖句にあるように、神さまはわたしたちを違うように創られました。そのことに意味があるのか、未熟なわたしたちには分かりませんが、神さまがそうなさったことには意義があるのだと思います。わたしたちが人と違うのは奇特なことでも恥じ入ることでもない、と聖書に記してあります。コリントの信徒への手紙が書かれた当時、多様な人々が集まる多文化な国であったコリントの教会では、目立った能力を持つ人が傲慢になって他の人々を見下していたと言われています。他の考えを持つ人とは相容れないと心を閉ざし、狭い世界の中で自らの利潤にばかり気を配っていたようです。人々は分裂し、本来同じ神を信仰しているということを忘れて自分に都合の良い派閥に属し、自らの権益に視界が囚われていました。そんな信徒たちを諫めるため、パウロはギリシア文明の時代から用いられてきた「身体の寓話」によって、彼らを諭す手紙を書いたと伝えられています。従来、この寓話は「平民は貴族たちの手足となって従順に働くべきだ」という意味で用いられてきましたが、彼はそれを真逆の意味、つまり平等を説くために用いました。彼のこうした言葉は、自分と異なる人々を除外しようとする当時の社会に対する、ある種の反駁(はんばく)だったとも言えます。これを初めて目にしたとき、互いを横に見てどちらが上か下か判断することは何と愚かしく、神という絶対的な存在を無下にする稚拙な行為である、とパウロが言っているようにわたしには思われました。この手紙が書かれたのはあくまで遠い過去のことですが、わたしたちが生きている今日の世の中にも同様のことが起きていると思います。外見であれ内面であれ、自分たちと違う人々を、わたしたちはいとも簡単に遠ざけます。それは時として自分さえも傷つける行為です。
 わたしはずっと人の話を聞くことができるとか、複数のことを同時に行うことができるとか、そうした「普通の良さ」に囚われて、そこから外れた自分の不出来を恥じ、咎(とが)を責め、安穏を遠ざけていました。しかし今、多くのことを知って、自分に向けて投げていた石を初めて手放すことができています。
 多くのことを知ってみてください。多くのことに触れてみてください。多くの人のことを考えてみてください。人は一人一人違います。それが自然なことだと知っていることは、心を照らす蝋燭(ろうそく)の火になります。いつかあなた自身が、自分は周りとは少し違うのかもしれないと思ったとき、もしくはあなたの大切な人にその違いを打ち明けられたとき、その火はあなたとあなたの大切な人を照らしてくれます。わたしたちの「違い」は、神さまから与えられた賜物だと思います。わたしたちはそれを否定的なものや確執として捉えがちですが、今一度、聖書の言葉に耳を傾けて、一人一人が神さまに愛される大切な存在なのだということを覚えていてほしいと思います。たとえそれが小さな火であっても、あなたとその人にひと時の安らぎを与え、暗闇を追い出してくれるかもしれません。そのような灯火が、一人一人の心で絶えることなく輝き続けるよう、祈っています。