2025/06/30
キリスト教教育
生徒礼拝
高3による生徒礼拝が行われました。
生徒礼拝は、司会、お話、奏楽を高3が担当します。
聖書の箇所は「マタイによる福音書」25章14〜30節。
有名なタラントンのたとえ話について、自分の年齢や置かれている状態によって受け止め方が少しずつ変わってきたことを話してくれました。
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私たち高3は、5月に学年全員で行く最後の宿泊行事である修養会を終えました。修養会では、聖書の御言葉や先生方のお話を通して、自分自身のことや英和での生活のことを振り返り、これから自分たちがどうあるべきかや、どう過ごしていくかについて考える時を持ちました。
私たちに与えられる聖書の御言葉は、同じ御言葉であっても、時によって自分の中でその解釈や感じることが変わることがあると思います。実際、私たちは聖書の言葉からクラス礼拝などで、たくさんの恵みを分かち合っています。
例えば、今日の聖句についても、私は過去に2回解釈が変わりました。小さい頃の私「なぜタラントンはみんなに平等に分けられなかったんだろう?」と思っていました。「神様は平等に全ての人を愛してくださっているのだから、配られるタラントンの数も平等でいいはずなのに。」と思っていたのです。それからしばらくして、身の回りやニュースなどから世の中の理不尽さを感じるようになると、今度は「人によって渡されるタラントンの数が違うのは、世の中の不平等さを表していて、聖書は『自分のタラントンが他の人より少なかったとしても、弱音を吐かずに頑張りなさい。』と言いたいのかもしれない。」と思うようになりました。それからまたしばらくして、現在の私は「私たち一人一人が神様から愛されている存在なら、他の人と比較する必要などないのではないか。」と思うようになったことをきっかけに、先ほどの聖句の解釈も、「これは自分と他の人との比較ではなく、5タラントンを渡された人も、2タラントンを渡された人も、1タラントンを渡された人も、全て私自身の心の中で起こる変化を表しているのではないか。」と考えるように変わりました。それは、私という同じ人間の中であっても、例えば、自分が好ましいと思える状況にいる時には、自分に与えられているタラントンは十分であると感じられます。そのような時は努力することも容易いです。しかし反対に、嫌で逃げ出したくなるような状況にいる時には、自分に与えられているタラントンは少ないと感じられて、そのような時は消極的になったり、努力をすることが難しくなったりします。まさに3人のしもべのようなことが私の中で起こっていると思うのです。
そう考えると、自分にとって良くない状況で努力をすることが難しいのは、一番少ないタラントンを渡されたしもべのように、自分が神様からタラントン自体だけでなく、その使い道も託されていることに気が付いていなかったり、忘れてしまっていたりするからかもしれません。自分が手にしているものが、どんな時でも、どんなものであっても、それが神様から託されているものであると考えるならば、それを活かしてどのような結果を出せるのかは、自分自身の行いによるものであり、つまりは自分だけの腕の見せ所であるはずです。そうであるなら私たちは、いつでも何に対しても最善を尽くす必要がある理由を、ここに見つけることができるように思えます。
また、私はこの聖句について、好きな点が2つあります。1つ目は、託されたタラントンが0だった人はいなかったという点です。今年度の修養会の課題図書は、渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』でした。私は、私たちが置かれている場所も、神様から託されているものの1つなように感じています。私たちはたとえ、自分が何も手にしていないように思える時であっても、必ず何かを神様から託されているのではないでしょうか。2つ目は、どのしもべも主人から期待されていたという点です。先ほどの例え話の中で、タラントンを土に埋めたしもべに対して、主人が「それなら銀行に預けておいたのに。」という部分がありました。銀行ではなく、その人を選んでタラントンを預けたということは、その人に期待をしていたということだと思います。日常生活においても、私たちは誰かに選ばれて期待されたり、またその思いに応えようと努力をしたことを認めてもらえたりすると、嬉しい気持ちになると思います。まさに「私たちは、神さまから期待されている存在である」ということをこの聖句は教えてくれているように感じます。
修養会で先生方から教わったことの一つに「どんな場所にいても自分を大切にして生きる」ということがありました。どんな時にも自暴自棄になったり、努力をやめてしまったりしないためには、神様に見守られていることを忘れないこと、つまり、先ほどのタラントンの例え話にもつながるのではないかと思います。
卒業が近づく中、私は聖書の御言葉や修養会を通して、自分が今、神様から何を託されているのか、そして、その託されたものをどのように活かして、神様にどんな良い報告ができるのかを考えながら、英和での残り少ない日々を大切に過ごしていきたいと思っています。そして同時に、英和で共に過ごす皆さん全員が、神様から託されたものを活かし、素敵な日々を過ごせますようにと願っています。
















