2024/12/09
東洋英和の日々
生徒礼拝
今朝は高3による生徒礼拝が行われました。
聖書の箇所は「コリントの信徒への手紙Ⅰ」第10章13節。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
[高3による生徒礼拝]
今、読んでいただいた聖書箇所は、私の大好きな聖書箇所です。
私がこの聖書箇所に出会ったのは、英和に入学したばかりの中1歓迎礼拝の時でした。
初めて見た時、私は「神様も、逃げてもいいとか言うんだ!」と少しの嬉しさと救われた感覚を覚えました。それは、私が今まで試練から逃げる人生を送ってきたからです。
しかし、救われたのは束の間、苦手なことから逃げてばかりの自分を、「神様が逃げてもいいって言ってるから逃げることは悪いことじゃない」と正当化しようとしている自分自身に気づきました。
そして、弱い私自身とこの聖書箇所に嫌悪感を抱いたのです。
皆さんは試練から逃げるということをどう考えるでしょうか。
私は小学生の頃から、失敗することや挫折することが嫌で自分の実力以上のことに挑戦することを避けてきました。
できない自分、失敗する自分を受け入れることを頑なに拒み、なるべく失敗しない、楽な道を選ぶことを好みました。
それは良いことではないと薄々気づいていましたが、小学生の時に担任の先生に、「楽な道ばかり選んではだめだよ」と言われた時から、その言葉が忘れられず、嫌なことから逃げるという性格を自分の欠点としてはっきり自覚するようになりました。
逃げては駄目だと思いつつも変わることができず、新たな試練に出会う度、変われない自分、逃げてばかりの自分へ失望を募らせていた私は、神様の「逃げていい」という言葉にすがりたくなったのです。
しかし、逃げてはならないと自分に言い聞かせていた私は聖書の言葉を素直に受け入れることができず、聖書にこんなことを言うのは失礼だと十分承知の上で言わせて頂きますが、見るたびに私の欠点を思い出させるこの聖書箇所が嫌いになりました。
では、どうして今の私はこの聖書の言葉を素直に受け入れられるようになったのか。
それは、周りの人に助けを求めることにより、試練に立ち向かうことができるようになったからです。
周りの人に助けを求めるということは、自分だけではできないということを認めることと等しいと思います。
できない自分と向き合い、そのような自分を受け入れるというのは、勇気がいることです。
ずっと私にはその勇気がありませんでした。
でも、東洋英和での学校生活を通して、少しずつできない自分を受け入れ、助けを求めることができるようになりました。
それは私自身よりも先に、ありのままの私を受け入れてくれる人達が、この場所にいてくれたからです。
私は父の仕事の関係で引っ越しによる人間関係の変化を多く経験しました。
英和に入学する前に通っていた小学校では、転校生として、既に出来上がっている人間関係の輪に入ることが億劫になり、学校にいる時間だけで一日一冊本が読めてしまうほど一人時間を満喫していました。
それはそれで楽しい時間でしたが、ありのままの自分で話すことができる友達はおらず、失敗している自分を見せることが恥ずかしいと思い、欠点を隠したいがために困っても人に助けを求めることができませんでした。
そんな私は、英和に入学して、転校生という立場から解放され、小学生の時とは比べ物にならないほど友達が増えました。
あんなに大好きだった本なんて全く読む暇がないほど、毎休み時間友達とおしゃべりをし、お弁当を食べ、放課後一緒に帰る。とても楽しくて幸せな時間です。
でも、他人と接する時間が長くなればなるほど完璧な人間を装うのは不可能になります。自分の欠点や苦手なことがあらわになっていきます。
例えば、私は技術系の科目が得意でないため、中学1年生のころ、家庭科の授業でミシンの使い方がわからず授業についていけない、音楽の授業で何度練習をしても同じ箇所で音を外してしまうなど、困ることが度々ありました。
友達や先生に頼るということを知らない私はいつも一人で慌てていたのですが、そんな時、周りの友達や先生がやってきて、わからないことを教えてくれたり、何回も練習に付き合ってくれたりしたのです。
最初は、彼女たちに感謝をしつつ、また出来なかった、恥ずかしいと思っていましたが、何度も同じような経験をするうちに、この人たちは私が失敗しても見放したりしないし、私の長所も短所も知ったうえで、ありのままの私を受け入れてくれているということに気づきました。
そうやって安心できる環境を得て、ここが私の居場所であると思えて初めて、私自身もきちんと自分のできないところを自分なりに受け入れることができ、困った時に、助けてほしい、手伝ってほしいと言えるようになりました。
私にとって、この聖書箇所の言う「逃れる道」に進むとは、自分だけではできないということを認め、周りの人に助けを求めることではないかと思います。
私は、何かに挑戦してみたい、試練に立ち向かいたいと思う一方で、逃れの道に進んではならない、誰かに頼ってはならないと思えば思うほど失敗が怖くて前に進むことができなくなっていました。
でも、今は違います。ありのままの私を受け入れて、困ったら頼っていいよと言ってくれる友達が、先生がたくさんいます。
そのような環境で私は、今私にできるかどうかに囚われず、やってみたいと思うことに、自分の気持ちに従って挑戦することができるようになりました。
試練の前で、不安や葛藤を感じるとき、あなたは一人で立ち向かう必要はないということを思い出して欲しいと願います。
あなたは一人ではない、挑戦を恐れるな、と言うのは簡単なことですが、実際挑戦する側の人には軽い言葉に感じられるかもしれません。
でも、私は私自身の経験から、逃れる道に進んでも良い、誰かに頼っても良いと考えるだけで、少し心が軽くなり、ちょっとだけ前に進むことができると感じます。
頼ってもいいよ、と言ってくれるのは、家族や友達、先生、時に神様かもしれません。
不安な時にその気持ちを祈りを通して神様に話してみるだけで、ちょっとだけ心が落ち着くことがあります。
私にとってこの6年間で得た一番の財産は東洋英和で出会った、頼ってもいいよ、と言ってくれる、私を支えてくれる人達です。
そんな大切な人達とこの学び舎で当たり前に顔を合わせることができる日々はあと何日あるでしょうか。
この守られた環境から出て、新たな場所で試練に立ち向かわなければならない時が近づいています。
しかし、私は一人ではない、私達は一人ではないのです。だから耐えられない試練はないと信じています。
これからも、逃れる道に頼りつつ、私らしく自分の道を歩んでいきたいと思います。