2024/11/22

キリスト教教育

生徒礼拝

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今朝は高3による生徒礼拝が行われました。
聖書の箇所は「フィリピの信徒への手紙」第1911節。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」

人生における「成功」とは何か?
何が成功なのかではなく、何を成功と捉えるかが大切なのではないか、そして何をすれば良いのか、さまざまな経験を通して考えたことを後輩に伝えてくれました。


[高3による生徒礼拝]
3の皆さん、先ほど読んでいただいた聖句に聞き覚えはありませんか。実はこの聖句、私達が約5年前に東洋英和に入学した年の年間聖句だったものです。そこで、改めてもう一度聖句を読み上げたいと思います。
「知る力と見抜く力とを身につけて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」
では、この聖句の「本当に重要なこと」とは一体何を指しているのでしょうか。
神様は、常に私達に試練を与えてくださっている。何度この言葉を英和で聞いたことでしょう。この文を聞いた当初、私は「なぜわざわざ苦しいことを神様はお与えになるのか」と疑問を抱いていました。けれど、今考えてみれば、その試練は私達が成長する上で必要不可欠であったのだと思います。この聖句が祈っているように、他者を「知り」、術を「見抜い」て、その試練を乗り越えた先には、必ず「重要なこと」という名の「成功」があるからです。それでは、「本当に」重要なこととは何でしょうか。私たちは、「成功」と言われると、何かたいそうなものを想像してしまいがちで、その周りにあるはずの数多の小さな「成功」になかなか気づくことができません。だから聖書では、「本当に重要なことを見分けられるように」と願っているのです。私たちが、大きな成功だけに目を向けるのではなく、私たちが得たすべての成功を見分けることができるようにと。
ところで、皆さんの願いはなんですか。
私の願いは、人生における成功です。この一文だけに着目すると、私がただただ貪欲な人間であるかのように思えますね。では、具体的に成功とはどんなことでしょうか。成功の形は人によって様々ですが、私にとって成功とは、一定期間の過程を経て何かを得ることであると考えています。たとえ結果自体が最悪であったとしても、その結果を得るための過程の中で何か成し得ることができたのなら、それは成功なのです。そして、その過程の中で、まず、いちばん大切なことはともに作業する相手のことを深く知ることです。お互いのことを知って初めて理解し合うことができるし、より良い結果を出すことが可能になるからです。けれど、他者全員が馬の合う人ではないのが当たり前であるように、時には、理解し合うことが困難な相手もいます。そんな相手との衝突を避け、うまく付き合っていく方法を見抜く力も成功を成し遂げる上で必要です。こういった他者との衝突は、生徒の皆さんも然り先生方も然り、誰しもが通る道なのではないでしょうか。
私がイギリスに住んでいた頃の話です。私の通っていた学校では、小学校6年生の年に小学部の総まとめとして、あるプロジェクトが課されていました。生徒がそれぞれ与えられた選択肢の中から興味のある議題を選び、生徒の希望をもとに先生によって振り分けられた班で、その議題について調べ、学期末に全校生徒や保護者に発表する、というものでした。当時、私は象牙の取引問題について調べることになったのですが、他の班が5人いたりする中、私の班は自分を含めてたったの3人、しかもメンバー2人は私が苦手とする男子でした。すでにお先真っ暗という状態ながらも、私は小学校最後の課題なのだから失敗するわけにはいかないと、とにかく必死に作業していたのを今でも覚えています。しかし、そんなにうまく行くはずがなく、こちらが必死で調べ物をしている中、かたや自分の考察を延々と論じ、かたやそれに対してうるさいだの文句を罵り、これがカオスかと言わんばかりの状態に成り果ててしまったのです。しまいには、別の班の親友に「頑張れ」と憐れみの目を向けられるようになってしまいました。最初は、彼らの言動一つ一つに注意をして、早く作業を進めてくれと促していた私でしたが、今思えば、私は彼らのことが苦手だからと、向き合おうともせず、無意識に彼らのことを突き放してしまっていたのかもしれません。だから、なかなか班としてまとまることができずに、苦戦していたのでしょう。しかし不思議なことに、ずっと同じ班で作業を続けているうちに、自然と作業が順調に進むようになっていったのです。長い期間一緒にいたことで、お互いのことを理解し始めることができたからなのだと思います。当初はいちいち揉めていた役割分担もすぐに決め、効率的に作業を行うことができ、発表日まで大きな問題を起こすことなく順調にプロジェクトを進めることができたのです。当時は何事もなく終わって良かったと安堵していましたが、よくよく考えてみれば、これは至極当たり前の結果なのです。相手のことを突き放してしまった私は、一人で抱え込んでチームプレーをしようともしなかった。グループワークをしようとしない人が、班でのプロジェクトで成功を目指すなど明らかに不可能なのです。相手のことを少しずつだけでも、徐々に知ることができたからグループワークは成立して、互いに理解し合えたからこそ、苦手だった彼らと打ち解けることができたし、プロジェクトを成功に持っていくことができたのです。
東洋英和に入学後も、やはり、私は他者との衝突は日常茶飯事で、例を挙げればキリがないほどです。ですが、その経験は全て、成功を成し遂げる上でとても大切なものであったのだと今振り返って改めて認識させられます。お互いのことを知ったから、上手な付き合い方を見抜くことができたから、私にとってかけがえないのない友人を得ることができましたし、部活では、楓祭で最高の舞台を作りあげることができたのです。これらの成功は、今の私を形成するにあたってなくてはならないものなのです。だから、私はこの聖句が祈るように、人生における成功を願います。