2024/10/15

東洋英和の日々

生徒礼拝

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今朝は高3による生徒礼拝が行われました。
聖書の箇所は「フィリピの信徒への手紙」31314節でした。
「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
夢に向かって努力する時、確信を持って前に進んで欲しいという先輩からのメッセージは、多くの英和生の心に響いたのではないでしょうか。
6年間の想いを込めたお話をきいたあとに皆で歌った讃美歌Ⅱ編142番「わかきわれらは」には、東洋英和がずっと大切に受け継いできたものがつまっているようでした。


[高3による生徒礼拝]
夢は信じ続ければ叶う、というのは本当でしょうか。
これは、ディズニーシーで行われているナイトパレード「ビリーヴ!」のコンセプトです。昨年学校でも話題になった記憶がありますが、私もちょうど去年の今時期に観に行くことができ、とても感動したことを覚えています。
「諦めずに信じ続けることで夢を叶えていく」という趣旨が随所に込められており、当時進路に悩んでいた私にとってはいろいろな意味で刺さる内容でした。ところが、時間の経過と共に私の脳内にある一つの疑問が浮かび上がります。それが先ほどの「諦めずに信じ続けることで夢は本当に叶うのか?」というおよそディズニーに投げかけるべきではない、現実的なものでした。そんなに簡単に夢が叶うのならば、誰も苦労はしないのではなかろうか、そう思いました。
本日お読みいただいた聖書箇所は、運動部の方々には耳馴染みのある箇所であると思いますし、直近では体育祭で読まれた箇所でもあります。先日の体育祭は、毎回のことながら最後の最後まで順位が読めない展開でした。私はこれまで小学校から計12回運動会ないし体育祭をやってきて、一度も優勝したことがなく、今回が最後の体育祭にしてはじめての優勝でした。逆に言うとそれまでの11回はクラス単位とはいえ、頑張りの結果が出ないという何とも言えない経験をしてきました。どんなに目標に向かって全力であっても、必ずしもそれが結果と結びつくかと言われたら、なかなか難しいというのも私たちは知っています。にもかかわらず、私たちは「夢は信じ続ければ叶う」という言葉を聞いて、心が揺さぶられてしまうのです。どうしてなのでしょうか。
「諦めないという信念を持って行動する」ことで夢が叶う確率が上がる、というところまでは、私たちが知っているところであると思います。そして、その信念を貫くことの難しさも同時に知っているが故に、感動を覚えたり、魂が揺さぶられるような経験をするのではないかと思います。今、自分がいるところから一段階も二段階もレベルアップする、それを夢というのですから、苦労するのも当然といえば当然です。そうはいっても、やっぱり辛いなと思うことが多いです。夢を追う過程でぶつかる困難というのは、ただ漠然と不安、自分には無理な気がする、といったような「目標が霞んで見えなくなる」瞬間のことを言うのだと思います。
このような時に私たちの気持ちを前に向かせてくれるもの、それは自分が目標を達成できる、という「確信」です。ここでいう確信は、自信とは性質が異なるものです。自信というものは不安定で揺れ動きやすいものですが、確信はぶれることはありません。自信というものの根拠は、過去の自分の行動に結びついていると思います。人生の大一番で自身の努力を省みて、自信を持つことは確かに重要でしょう。しかし、自分がたどり着いたことのない目標、未知数の夢に向かっているときに、終始自信を持ち続けるのは難しいと思います。しかし確信は違います。確信の根拠は過去に帰結するものではなく、「目標を達成したい」という自分自身の意思や感情に帰結するものだからです。たとえ自分に自信が持てなくても、「目標を達成する」という確信を自分の軸に据えることで、ある程度の不安は解消されるのではないかと思います。
ここで今日の聖句をもう一度振り返ってみます。
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がイエス・キリストによって上へ召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
「後ろのものを忘れ」という言葉に着目して考えると、過去というものには二種類あると思います。一つは、自分のなかで肯定できる過去です。練習量の多さや学習量の多さがそれに値すると思います。もう一つが、なるべく思い出したくない過去。ついついだらけてしまったあの日、友人と仲たがいしてしまったあの日など。どちらも、決して忘れてはならない記憶だと思いますが、主に私たちを悩ませるのは後者の失敗談です。
聖書は、過去のこと、過ぎ去ってしまったことを気にして目標がかすむくらいならば、一旦そのことは忘れて、このあとどうするのか、という変更可能な未来のことを考えなさい、そう私たちに語りかけています。確信というものは、誰かによって得られるものではなく、私たちが、自分自身の行動によってつかんでいくものです。そのうえで最も大切なことは、過去の功績や失敗を省みることではなく、むしろ目標を見据える強い思いを持つことです。自信はなくとも確信があれば、あとは「目標は叶えられる、叶えてみせる」という確固たる思いにしたがって生きていきたいと思います。
今一人一人がもつ目標は何でしょうか。この時期だと楓祭関連のことが多いと思います。楓祭の公演の成功、教室展示が滞りなく進むこと、楓祭進行がうまくいくこと等々、さまざまに有ると思います。確信するということは、目標を叶えようとする自分の事を信頼するということです。自分の夢を、他でもない自分自身が「今叶えに行くから、もう少し待ってて」としっかり見つめ、目標との距離を着実に縮めていきたいと思います。
楓祭前のこの時期に限らず、やることが目白押しになる時、不安に苛まれるときにこそ、自分の目標を見つめなおし、目の前のことに全身をむけたい。そうすることで「夢は信じ続ければ叶う」のだと思います。