本当の愛とは
『たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。』 聖書 コリントの信徒への手紙 一13章1節、2節
年の初めにこの御言葉について、改めて考えてみたいと思います。ある意味で、正しくても愛がなければ無に等しいと受け取れますが、ここでいう愛とは、おそらく単に好きや愛おしいということではないでしょう。こちら側の秤で測った独りよがりのものでもなく、また相手の上辺の望みを叶えて単に相手を喜ばせようとするものでもないはずです。愛の対象を真に理解することや、理解しようと努力することが、「愛する」ことには含まれているように思います。真に愛するという行為は、簡単ではないと思わされます。
私が幼稚園に就職してまだ7年目ぐらいの時でした。私にとっては、どの子どもも掛け替えのない愛の対象そのものに思えていました。その当時、私の勤務園にDちゃんという年長の男の子が居ました。彼は家庭では殆どのことが思い通りになっていたようで、幼稚園でも自分の思いが通らねば納得せず、ゲームなどは、いわゆるズルをしてでも勝とうとすることが続いていました。例えばサッカーではゴールしていなくても、「した」と言い張ります。私はそれが残念でならず、彼がルール破りをしないように注意深く見ていましたし、反則はしてはいけないと、はっきり伝えるようにしていました。ところが何度彼に伝え続けても、私が見ていないと思うと、彼の行動は変わらず、改まる様子はありませんでした。私は困り果て、先輩保育者に相談してみました。すると彼女から、「あなたはDちゃんの悪いところを見つめ過ぎているんじゃないかしかしら?それを今までの半分ぐらいにして、Dちゃんを信じて、良いところを特に見つめてご覧なさい。」とアドバイスを受けました。そこで、私は彼の望ましい行動に注目するよう、意識しました。例えば年少児に親切な行動をした時など、今までよりもはっきりと言葉にして彼のその姿を喜んでいることや私の彼に対する信頼を伝えるようにしたのです。そのような日々が続き、気が付くと、いつの間にかDちゃんの他者を考えない、ルールを破るなどの自分勝手な行動が、すっかり影を潜めていました。不思議でした。子どものことを真剣に思っているからこその注意だと自分では思っていましたが、正しさを振りかざすことで、彼の自己認識を悪い方向に閉じ込めていたのかもしれません。子どもの間違った行動を自分で意識できるように導くこと以上に、子どもの良いところに気づき、それをより伸ばせるような関わりをする大人との関係が必要だったのだと思わされました。 山下久美
