語りかけたい言葉
「隣人を自分のように愛しなさい」 聖書 マルコによる福音書12章31節より
最近、年中組のAちゃんとお母様とのやり取りで印象に残った会話がありました。飼っているカブトムシの話を私に聞かせてくれている時のこと、死んでしまったカブトムシの幼虫を「捨てたんだ」とAちゃんが表現しました。お母様は即座に「そういう言い方は止めて欲しいな。(命あるものが死んでしまったから、大事に)埋めたんだよね。」と話しかけていました。( )の部分は言葉にはなっていなかったかもしれません。でも、その時のお母様の表情や想いを込めた口調から、私にはそのように聞こえました。Aちゃんはそれに対して何も応えませんでしたが、確かに何かを感じて受け取ったと、その表情から感じとれました。大人からの大切な語りかけでした。
またある日、O先生とBちゃんのやり取りが聞こえてきました。ニコニコしながら「おばあちゃん、あの・・・」と大好きなO先生に話しかける年少組のBちゃん。O先生はゆったりとその話を受けとめ、でも「おばあちゃん」と呼びかけられた時は必ず「Bちゃん、私はおばあちゃんだけれど、名前があるのよ」と自分の名前を告げ、「O先生と呼んでね」と、その度に伝えます。小さなやり取りですが、Bちゃんを赤ちゃん扱いせず、一人の子どもとして尊重しているからこそのO先生の言葉だと思いました。
子どもとのやり取りは、日々積み重ねられていきます。大人には、子どもの行動や言葉をそのまま受け取るべき時と、子どもの気持ちは受けとめながらもはっきりと違う道を示すべき時があります。それをどのように判断すればよいでしょうか。何をどのように伝えるべきか迷うとき、私の判断基準は「私の言動が、『自分と同じように他者を大切に思う心』を育てるための大人からの働きかけとなっているか」です。「自分を大切に」という部分には、幼児としての今と将来を考え、「自信を持って自立した人となっていくことを見通したものとなっているか」ということも含まれます。とは言っても自分の伝え方が、独りよがりになっていないかと考えることもしばしばで、かえで幼稚園での保育者同士の話し合い、考え合い、祈り合いの関係が、大きな力となっています。
語りかけても、その子どもに通じたのかどうかその時には分からないこともあります。しかし、真摯な想いからの積み重ねがやがて子どもの心深くに届いていくと信じています。ご家庭でも子育ての中、判断に迷うことがあるでしょう。私たちはそのことを一緒に考え合い、子育てという決して平坦ではない道のりを伴走し続ける仲間でありたいと思います。
そして神様を仰ぎ、どんな時にも私たちに寄り添う真の伴走者であるイエス様の存在を感じ、力づけられる者でありたいと思います。
山下久美