イエスさまのお誕生を喜びあう ―平和をともにつむぎだす―
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。マタイによる福音書1章23節
去る11月23日(祝)の午前中は、これまでかえで幼稚園に繋がり支えてくださった方々にお集まりいただき50周年記念の礼拝をささげることができました。そして、その午後は、ホームカミングとしてかえで幼稚園に帰っていらした18歳以上56歳までの卒業生とその保護者の方々をお迎えし和やかな交わりをし、会の最後に礼拝の時をもちました。この日は、この50年間を守り導いてくださった神さまと、いつも共にいて支えてくださったイエスさまに心から感謝し、またかえで幼稚園に繋がってくださっていた(いる)全ての方がたへの感謝に満ちた喜びの一日でした。
午後の礼拝の中で、どの年代の子どもたちとも親しんできた讃美歌を4曲メドレーで歌いました。選曲には少し迷いましたが、迷わずに選んだ一曲が『アドベントクランツに』(富岡正男 作詞・作曲)でした。その理由は、私がまだ担任をしている時、降園前の集まり等で『アドベントクランツに』を歌いたいというリクエストが季節を問わずにとてもよく寄せられていたことと、卒業した子どもたちから「私の一番好きな讃美歌は『アドベントクランツに』です」ということばを聞いてきたからです。
『アドベントクランツに』がなぜこんなにも子どもたちの心に響きうれしい気持ちにさせるのか・・・おそらく、アドベントクランツのろうそくの灯を数えながらクリスマスを待つ間に、見たり・聞いたり・香りをかいだり・手を動かしたり、そして礼拝をする多くの体験が「楽しかった」「嬉しかった」「安心だった」という思いを刻んでいるからだと思います。春・夏・秋に続く日常の中に、混じりあっていくちょっと特別なできごとが、この歌とともに浮かび、心に喜びをもたらすのでしょう。
「♪・・・まことの光 イエスさまの誕生を、みんなが待っている・・・」という歌詞の「まことの光」ということばの意味は、幼児だからということではなく、大人になっても、毎年深められていきます。(幼児だからわからないということではなく、幼子は幼子の感性で光なるイエスさまをまっすぐに感じとっていると思います)
聖書は、イエスさまのご存在を「光」とあらわし、その光は私たちの心を包み愛し、安心と希望を与え、良い方向へと導いてくださる「まことの光」であると教えています。いつでもどこにいても心の光となって愛し守ってくださる方がいることを知って歩む人生は、たとえ辛いことがあったとしても一人では無いと思わされ、伴っていただき、光の中を歩む人生となります。イエスさまの光は消えることはありません。
『アドベントクランツに』が大好きであった卒業生たちが、大人になっても変わらずに、イエスさまの「まことの光」の中を歩んでいると信じます。そして今年も、幼稚園の子どもたちとともに、人間の姿となって、しかも家畜小屋(馬小屋)でお生まれになるという低いお姿でこの世に降りて来てくださった救い主イエスさまの光を知り、感謝し、喜びあいたいと思います。
イエスさまは、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)と言われています。このメッセージは、今私たち一人ひとりに、そして全世界の人々に送られていると思います。自分中心であり、相手の気持ちを思うことが難しく、不平不満や攻撃性を持ってしまいがちな私たちは、喜びあうことも愛することも、忘れてしまうことがあります。イエスさまは、そのような私たちでも深く憐みながらも「私はあなたを愛する」と言ってくださっています。
アドベントを前にして、世界の平和を心から祈ることも大切にします。それとともに、「神さまが私にお与えくださった一人ひとりとの関わりの中で、また子どもたち同士、保護者同士、先生たち同士、家族や友だちとの関わりの中で、互いの存在や思いを尊重できますように、思いを分かち合えますように、助け合うことができますように、自分のまわりから平和をつむいでいくことができますように、どうかイエスさまが光となってお支えください」と、祈っています。
ご一緒にクリスマスを待つ日々を穏やかに過ごし、賛美と感謝と祈りをささげるクリスマス礼拝を子どもたちとともに守りましょう。喜びを分かちあいましょう。
大漉知子
「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」
(口語訳聖書 ルカによる福音書2章10節・11節)