お祈りの時 ~形が残すもの~
先日久しぶりに弟と食事をした折、弟が思いがけないひとことをもらしました。「夜寝る時に祈るのだけど、その時には『イエスさまのお名前を通してお祈りします』と言っている」と言うのです。我が家はクリスチャンホームではありませんでしたが、私は父母のはからいで日曜日には近所の教会学校に毎週通っていました。小学生時代には1歳下の弟がいつも一緒でした。私が中学に入り弟が6年生になった春、家族は父の転勤とともに宮城県から神奈川県に戻って来ました。その後私はすぐに4歳児の時に入園した幼稚園が属する教会に通うようになりましたが、弟はその時からぴったりと教会には行かなくなり、キリスト教との接点の無い(ように見える)50年を過ごしていました。私は信仰はそれぞれの時があることを思い、弟を教会に誘うことを積極的にしなかっただけでなく、聖書の話をしたことも無い50年でした。その弟が、祈っていたこと、しかも「イエスさま」を通して祈っていたことに、「イエスさまが弟を離れずにいてくださった」と思い感謝しました。弟にとっては習慣として形式として口からこぼれ出る決まり文句なのだとも思います。しかし弟から「だって、そうでしょう。祈りはイエスさまを通してするものでしょう」と言われると、形が残す大事なものがあることを思わされました。
幼稚園で私たち教師がお祈りをする時に、子どもたちは静かに耳を傾け、そして「待っていました」とばかりに、「このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげします。 アーメン」に声(ことば)を重ねます。「最後まで祈りを聞き、アーメンだけを合わせるので良いのだけど」と思うこともありましたが、このくりかえしが心の底に祈りを残し、見えない神とつながり、守られている安心となるのだとしたら、幸いなことです。
時折保護者から「この頃○○が食事の前にお祈りをしています」というような報告が届きます。私は、「どうぞ、そっと心を合わせてくださいね」と伝えます。 夏休み・・・子どもとともに祈る時が、家庭の食卓や眠りの場にも生まれ、続いていきますように・・・。
イエスさまは、私たちの祈り(感謝や願いや不安な思い・・)を聞き、「神さま、みこころのままに守り、時を備えて叶えてください」と、とりついでくださる方です。
「どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎだせ。」 詩編62篇9節より
大漉 知子