「おはようございます」の一言に思う
私は、門の前で親子を待つ朝の時間が好きです。
晴れた日も雨の日も、お一人おひとりをお迎えする思いは「ようこそ」です。
それぞれの家庭の朝にはそして幼稚園までの道のりには様々な物語があり、穏やかな朝も波風のたつ朝もあると思います。それをそのまま持ち込んでの登園という場合もあるでしょうが、たいていはちょっと仕切り直して、または心弾ませて門をくぐりぬけていきます。空間としても時間としても門から一歩入ると幼稚園です。門番の私が「おはようございます」と挨拶をすると、「おはようございます」と親子から返ってきます。ですが、ある時期まで(子どもによってはそれがだいぶ長い間)だまっている子どももいます。だまって目を合わせる子どももいれば、目をそらす子どももいます。その時に慌てて「ほら○○、先生にちゃんとご挨拶して」と言われるお母さまもいますし、「どうして言えないのでしょう」と困り顔の方もいますし、「申し訳ございません」と謝られる方もいます。一方、元気に「おはようございます」が言えた子どもには「きちんと上手にできたわね」と大喜びしてほめる方もいます。「挨拶ができることが大事」と思われるそのお気持ち(親心)はよくわかります。
しかし私には、そういう時の子どもの気持ちもわかります。「おはよう」のその一言を発するのにドキドキしていることも、なんだか恥ずかしいという思いも、お父さんお母さんに期待されているのにできない苦しさや抵抗もわかります。ですから、子どもに挨拶を強いることはしないでいたいと思ってきました。子どもにとっては、大人同士が心からの笑顔で気持ちよく挨拶を交わし続けることを、見て感じていることが挨拶を知る道となります。「やがては交わりや関わりのはじめの一歩として、挨拶を交わす人へと育っていきますように」という願いは私も一緒です。きっとその時はきます。(その時には、そっと喜びを分かち合いましょうね)
復活されたイエスさまが、最初に語られたことばは「おはよう」であったと聖書に書いてあります。私は、この「おはよう」は「安心しなさい」という意味でもあると知った時から「今日も安心して過ごせますように」という相手への気持ちで、「おはようございます」と言っています。
「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」(マタイによる福音書10:12)
大漉知子