「共 に 育 つ」―子どもも大人も―
2月半ば、廊下を歩いていた私に年少組のMちゃんがそっと寄り添って来て言いました。「ねえ、せんせい。Mちゃんもおおきくなったら、かんけーき、やってもいいの?」・・私は「かんケーキ?」とお菓子を思い浮かべて応えました。Mちゃんは、「かんけーきだよー。ほらあれ」と言い、園庭で缶蹴りをしている年長組たちを指差しました。私はMちゃんと同じ目線となり、「ああ、缶蹴りのことね。とってもおもしろそうね。・・やっていいのよ。Mちゃんも大きくなったら、やりましょう」と伝えました。Mちゃんは、「うん、そうだね」と言い、たたたっと小走りで保育室に戻っていきました。
園の中には、3歳児から5歳児までが混ざり合いなかまになっての遊びもたくさんあります。特にこの2月には、以前よりなお一緒に砂遊び・積み木・かけっこ・ころがしドッチボール・おにごっこなどを年齢を越えての関係で喜んだり困ったりしながら遊んでいる姿が見られました。もともと一人ひとりが違う個性を与えられている上に、体験の種類も数も、言葉から思い浮かべるイメージも、体力も、様々に違う3学年の者同士が同じ遊びをするのですから、色々なドラマが生まれ、ほほえましい場面とともにぶつかったり止まったりすることだってあります。私は、それも幼稚園の暮らしの良さであり、うまくいかない時を過ごすことが、共に育ちあう時となっていると感じ、にこにこ(にやにや)させられながら見ています。
一方、決まりでは無いのですが『缶蹴りは年長組になってから』という暗黙の了解がかえで幼稚園の中にあります。その理由には、「子どもの体験や成長発達を思い、ルールの理解や間をよみながらの微妙なかけひきのおもしろさが共有できるようになってから」ということもあります。しかし私はそれ以上に、「大きい組になったら、缶蹴りをやりたい」という憧れをもって、その時を迎える意味の大きさを思います。子どもが待って待って始めた時の勢いはすごいものです。年長組の「スリルを楽しむ愉快さ」や「じっと動かずにタイミングを計っている姿」を、庭のあちらこちらで小さい子どもたちが、みつめている今です。そして憧れをもって「いつか自分もやってみたい」と時を待っています。
なんでも自由にできるようでいて、「大きい組になってからのお楽しみ」とか「これとこれを体験してからにしましょう」とか「今は場(時間)が無いからまたにしましょう」とか、「他の人の思いもよく聞いてから」等という制約がある中の自由が、安心して落ち着いて今を生きることを支え、また与えられた場で周りの人と共に生きるレッスンとなっています。
レッスンしているのは、子どもだけではありません。私たち教師も、そして保護者の方々もです。数年前、卒業式を前にしてある子どものお母さまが、「かえで幼稚園での年月は、子どもにとってはもちろん、自分にとっても『自分でいること』と『様ざまな違いをもった人と同じ方向を向いて一緒に歩むこと』の大切さや楽しさを知る時間でした。また、『調整すること』の修行の場でした」と、笑ってお話しになりました。「修行」ということばは重みのあることばですが、私たちの毎日には、調整するという修行(レッスン)が、いっぱい与えられています。「まあいいか」と受けいれたり、誰かに相談したり、向き合って話し合いをしたり、がまんしたり、計画を変更してみたり、祈って時を待つことをしたり・・・保育の中にはそのようなことが散りばめられています。そしておそらくお母様方の交わりの中にも、様々な自分とは違う他者との出会いがあり、交わりながら、調整する時があったことでしょう。子育てのなかまとして・・・。
私は長い間多くの子どもと大人から、「共に過ごす」時間が「共に育つ」時間になることを教えられてきました。かえで幼稚園には、その時間があります。ここでの体験は、他者と思いを合わせて何かをすることの面白さを知ることと、多様性のばねをつくることにつながっていくでしょう。
卒業していく年長組の方々へ・・2年間のコロナ禍を、調整しながらつながりあって過ごせたことにも感謝します。年度の終わり、また巣立ちの時に、この度のリディア会で浅草教会の篠田真紀子牧師が示してくださった聖書のみことばの中からの一節を共有し、祈りを合わせたいと思います。
「あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」詩編121編8節
大漉 知子