かえでの保育だより

新しい年のはじまりに

新年あけましておめでとうございます。

 元旦の日の光はまぶしいほどに明るいものでした。しかし、新型コロナウイルスをめぐる様々な不安の中に、「おめでとう」という思いがシューとしぼんでしまうように感じている方もいらっしゃるでしょう。我が家は人の出入りの少ないこれまでに無い静かな年末年始でした。今年の「おめでとう」は、心弾ませて交わし合う「おめでとう」とは違いました。だからこそ、心の深いところでベース音のように、クリスマスに与えられた「おめでとう」が余韻を残し3学期始業の今に続いています。

居間の棚の上に「光はやみの中に輝いている」・・・と、毛筆で書かれたみことばのカードがクリスマスイブから置かれています。私はこのカードのこのみことばが余韻を与えてくれていると感じています。書いてくださったのは90代半ばになられても喜びをもって子どもから大人までの多くの方に書道を教えていらっしゃる私の敬愛する先生です。(年に数回しかおけいこを受けられていないのでお弟子とはとても言えませんが、凛とした温かさで心を整えてくださる先生との時間は私の宝物です。先生の書には、流れがあり、間があり、祈りがあり、リズムがあり、それはまるで音楽のようです。)

さてこのみことばは1955年版口語訳聖書のヨハネによる福音書15節にあることばです。保護者の皆さまの持っていらっしゃる新共同訳聖書153ページには、同じ箇所が「光は暗闇の中で輝いている」と訳されています。ことばとは面白く深いもので、私には「やみの中に輝いている」がもたらすメッセージと、「暗闇の中で輝いている」がもたらすメッセージが違うように感じます。そして今の私には「やみの中に」という表現の方がなお心に届きます。(ひらがなの「やみ」であること、「中で」ではなく「中に」であることに感じるものがあります。)

新型コロナウイルスの不安だけではなく、私たちは「やみの中に」置かれることがあります。自分自身への葛藤・家族との関係・病気・子育ての悩み・友だちとの関係・仕事の壁・・・等、順調で朗らかにいられる時ばかりでは無いのが私たちの日々です。子どもにも、「やみ」を不安になりながら通る時や、「やみ」の中で迷う時があります。その「やみの中に」光が輝いていると聖書は言います。

「光」とは・・・神さまであり、ベツレヘムの暗い馬小屋で私たちの救い主としてお生まれになったイエスさまのことです。それは、愛であり、希望であり、真理です。私たちが「やみの中に」いる時に光は輝きます、そして私たちは光の方に向き、光に支えられて歩み出せます。「やみ」は一時苦しみや悲しみをもたらしますが、「やみ」には必ず意味があります。神さまがおられるからです。幼稚園はその光を信じ、礼拝しながら、子どもたちの日々を大切に重ねていきたいと思っています。

数年前、私がお習字を習い始めた一番の理由は卒業する子どもたちに手渡す聖書に、筆で「光の子として歩みなさい」(エフェソの信徒への手紙58節より)と残せるようになるためでした。(相変わらずそのみことばばかりを何枚も何枚も書き、先生に見ていただいています。)

子どもたちが神さまと人に愛されて、愛の光の中で、安心して夢中になって遊び生きている姿に、私は「光の子」であることの喜びを感じます。その姿は「この子どもたちは愛され守られているから、たとえ困難があっても、つまづいてもいても大丈夫」という私たち大人の希望にもなります。

今年もそら組・はやし組の子どもたち一人ひとりの未来を神さまに祈りながら「光の子として歩みなさい」と書かせていただきます。

年少・年中・年長のどの子どもにとっても豊かな3学期となりますよう小さな一歩を大事にしていきます。 2021年も、よろしくお願いいたします。             

大漉 知子

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