かえでの保育だより

ヒヤシンスの球根から考える

 先日、家の近所に新しい花屋さんができました。素敵な花屋さんだったので買い物帰りにのぞいて見ました。センスのいい観葉植物が並び、一つひとつを丁寧に愛情をもってお世話をされていることがよくわかりました。「見ているだけで楽しいなあ」ときょろきょろしていると奥の棚に大きな瓶がいくつも並んでいて、中にはチューリップやヒヤシンスの球根がいっぱい入っていました。私はヒヤシンスの球根の前で立ち止まり「そろそろ球根を植える時期だな」と思って見ていました。

 するとお店の方が「球根をお探しですか?」と声をかけてきました。私が「毎年ヒヤシンスの水栽培をしますが球根が腐ったり、成長が悪かったりなんです」と言うと、その店員さんは「きれいな花を咲かせるのなら球根を新聞紙に包んで冷蔵庫に入れて、冬を体験させてください」と言いました。私は球根を冷蔵庫に入れたことがなかったので「冷蔵庫ですか?」と聞き返してしまいました。店員さんは当然ですと言うように「はい、1ヶ月くらい冷蔵庫に入れるか外に置いてしっかり寒さを体験させてください」と言いました。

 私は店員さんの言葉に「よし、やってみよう」と球根を買い、家に帰って新聞紙に包み野菜室に入れました。

 今、我が家の冷蔵庫の中でヒヤシンスの球根が冬を体験中です。

 

 ヒヤシンスの話なのですが私は「人の成長」にも通じるものがあるなと考えさせられました。人の成長を思っての「冬」は、色々な意味にとらえることができます。冬を体験する葛藤や混沌や待つことを体験するとも言えましょう。

 子どもの生活で言えば、やりたいことを「大きくなったらね」と待たせられること、積み木や三輪車を使いたいけれど貸してもらえないこと、もっと遊んでいたいけれど片付けをしなければならないこと、友だちと思いが通じ合わなくて悲しんだり怒ったりすること・・・。信頼できる大人に見守られた中でのこのような経験が子どもの心の根っこを強く太くしやがて茎や葉や花を育てるための栄養(ゆたかな日々の体験)をたっぷり吸収していくことにつながるでしょう。傍にいる私たち大人はそのような経験をしている子どもをどのように理解しどのような支えをするべきか・・・共に考えていきたいと思います。

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙534節)     

                       永瀬真澄

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