かえでの保育だより

砂場の姿から

 天気の良い朝。身支度を終えたAちゃんと一緒に庭に出ました。砂場に行くと数人の子どもたちがすでに遊んでいます。年長組のBちゃんが、「せんせい?、気持ちいいよ?」と裸足の足を見せてくれます。「私も靴を脱ごうかしら?」と言うとAちゃんは私を見ます。そして靴と靴下を脱いだ私をAちゃんは何も言わずに見ています。「Aちゃんも裸足になる?」と聞くとこくりと頷きます。裸足になったAちゃんは一歩踏み出しますが、思いがけない感覚だったのでしょう。足の指を丸めてすくめます。ちょっと歩いては足の裏を覗き込んでいます。
 一方、年少組のCちゃんとDちゃんはバケツを持って水を運び堀った穴に水を流し込みます。水の表面に泡が立ち、しぶきがはねます。そのたびに二人は「わあ?」と歓声をあげて見ています。何回も水を汲み、運んで流し込むことが繰り返す二人をAちゃんが見ています。そのうちに二人は水の溜まった穴に足を入れ、バシャバシャと足踏みをします。少しするとCちゃんとDちゃんは砂場の道具置き場にあるじょうごに気づき、「これは何かな」というように眺めます。そしてじょうごを水を入れた穴に差し込みそこに水を入れます。じょうごを持ち上げると下側の穴から水が出て来ます。二人は「きゃー」と声をあげ、これを何回も繰り返します。じょうごを覗き込んだ二人の顔に泥が跳ねます。「あら?顔に泥が跳ねちゃったわね?」と私が言うと、Aちゃんもニヤッと笑います。
 子どもたちの姿を見ながら私は少し前に読み返した津守真氏の著書「保育者の地平」に記されているいくつかのことばを思い出します。
「手を使うことー未来を開くこと」
「子どもは、身体的行為によって、人生を探求している哲学者である」
 繰り返し繰り返し遊ぶことの中に子どもが希望を持って未来に向かっていく希望、学び、経験があることを感じます。砂や水の感覚を五感で感じ、不思議さ、おもしろさに気づく姿には哲学者を感じるとともに科学の目を育んでいることも感じます。  人生のおもしろさ、楽しさが心に育まれることを願いながら過ごす毎日です。

 永瀬真澄

  「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1章1節)

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