村岡花子 (1893~1968)
翻訳家・児童文学者・評論家
本名:村岡はな(旧姓 安中)
甲府生まれ。1903年(明治36年)東洋英和女学校に10歳で給費生として入学。
在学中から友人の柳原燁子(白蓮)に誘われて佐佐木信綱の門下で和歌・日本の古典文学を学ぶ。
そこで同じく東洋英和女学校卒業の歌人・翻訳家の片山廣子を紹介されて近代文学に導かれ、のちに彼女の勧めで童話や翻訳を始めることになる。
1913年(大正2年)に卒業。山梨英和女学校で英語教師を5年間勤めた後、銀座の教文館の編集者となる。1919年(大正8年)に印刷会社を営む村岡儆三と結婚。
翌年、長男・道雄誕生。しかし1926年(大正15年)最愛の道雄を病気で亡くしたことをきっかけに、日本中の子どもたちのために外国の家庭文学の紹介をしていくことを自分の進むべき道とし、1927年(昭和2年)にマーク・トウェインの『王子と乞食』を翻訳出版。
以後、75歳で亡くなるまで、日本を代表する外国の家庭文学の翻訳家として活躍。L.M.モンゴメリ作『赤毛のアン』シリーズの翻訳が代表作。他の翻訳作品に、エレナ・ポーター作『少女パレアナ』、チャールズ・ディケンズ作『クリスマス・キャロル』、パール・バック作『母の肖像』など多数。童話集に『たんぽぽの目』『桃色のたまご』など。また、女学生の頃から矯風会活動に加わり、婦人運動にも積極的に関わった。
初代校長
M.J.カートメル
1910年頃の婦人宣教師たち
前列左より:ブラックモア、
ハーグレーブ、ハウィ
後列左より:クレイグ、アレン、
ティンバーレーク
花子の孫である村岡美枝氏によると、『赤毛のアン』の中には、花子が親しくなじんでいた東洋英和の婦人宣教師たちの考え方、
指導のしかた、生活ぶり、服装などを思い起こさせる場面がいくつも出て来るそうです。