学校法人東洋英和女学院

第一部 花子と東洋英和での生活

花子が在学していたころの東洋英和

1900年に落成した校舎。花子も在学中に学んだ校舎

ミス・ブラックモア

この校舎は1899年の建築中に2回の台風により、2度倒壊しました。

当時の校長ミス・ブラックモアは大変厳しい指導をしていたと伝えられていますが、この困難に際し、
「雨の後に虹が出ます。恵みの虹を信じましょう」
と教職員、生徒を励ましました。厳しさの中にも一貫して愛と優しさのある校長でした。

花子在学時の東洋英和は自宅から通う通学生と寄宿舎から通う寄宿生がいました。
花子は親元から離れ、寄宿生活を送っていました。創立30周年記念として作成された絵葉書集の中から花子が在学していた前後の学校生活を垣間見ることが出来ます。

英語の教育も徹底して行われていました。
そのうちの一つがミス・ブラックモアが英語学習のために考案した「60の英文」でした。当時の寄宿生活の、起床から就寝までを60の短文であらわしたものです。
生徒たちはこれを暗唱し、時制を変えたり疑問文や否定文にしたりして学びました。
例えば、"I brush my teeth."と言いながら歯を磨いたり、"I go downstairs."と言いながら2階の寄宿舎から階段を下りて教室に行ったりしていたことでしょう。
このように、日常生活を通して自然と英語が身に付けられるようになっていました。

ブラックモアの「60の英文」

ブラックモアの「60の英文」(クリックで拡大表示されます)

戦前から東洋英和女学校の図書室にあった洋書


※写真クリックで拡大表示します

午後の授業は毎日英語で行われ、花子は英語漬けで、勉強に励みました。本が大好きで、時間を見付けては書籍室の片すみで本を読みふけり、ほとんどの洋書を読んでしまいました。

学校生活の中では「大文学会(今で言う、学芸会のようなもの)」という行事が盛んで、花子は高等科1年生の時にテニソンの「ダ、リベンジ」という英詩を暗唱しました。

花子が東洋英和で出会った友人

花子には10年間の東洋英和での生活を通し、多くの出会いがありました。その中でも特に柳原燁子(白蓮)と片山廣子との出会いは大きなものでした。
彼女たちは在学中、そして卒業後の花子の人生に大きな影響を与え、花子を支えました。
また、この2人は東洋英和での生活について以下のように歌っています。

《柳原燁子》 在校時からの友人 歌人
柳原白蓮として有名

《片山廣子》 卒業生 歌人・翻訳家
(翻訳家ペンネーム 松村みね子)
花子の文学の導き手

東洋英和の卒業式

花子が女学校の本科を卒業した1910年の卒業式の式次第です。
安中はな(花子)、柳原あき(燁子)と二人の名前が掲載されています。

後ろから2列目の左端が花子、右端が燁子

※写真クリックで拡大表示します

校長のミス・ブラックモアは、卒業に際して以下のような言葉を残しています。

「今から十五年、二十年、三十年ののちにあなたがたが今日のこの時代を思い返して、なおかつ、あの時分が一番楽しかった、一番幸福だった、と心底から思うようなことが、もしあるとしたならば、私はそれをこの学校の教育の失敗だといわなければなりません。人生は進歩です。今日は昨日よりも良く、明日は今日よりもすぐれた生活へと、たえず前進して行くのが真実の生きかたです。若い時代は準備のときであり、その準備の種類によって次の中年時代、老年時代が作られていきます。最上のものは過去にあるのでなく、将来にあります。旅路の最後まで希望と理想を持ちつづけて進んで行く者であってください。」

写真は、1913年、高等科を卒業した時の記念写真です。
後列宣教師の左手前が花子です。

▲ ページ最上部へ戻る