学校法人東洋英和女学院

第二部 卒業後の花子と東洋英和

村岡花子著作・翻訳から

第2次世界大戦が始まり、知人のカナダ人宣教師ミス・ショーが帰国に際し、花子に託したのが"Anne of Green Gables"でした。
戦時中で敵国の言葉である英語で書かれたこの本を、花子は翻訳し続けました。
時には防空壕にも原書と翻訳をした原稿を持って行き、大切に守りました。
このようにして、『赤毛のアン』は誕生しました。

左上『赤毛のアン』 第19章 自筆原稿、
右上『赤毛のアン』 第19章 自筆原稿の該当ページ
右下『赤毛のアン』 初版本

その他、翻訳などをした著作

花子は『赤毛のアン』シリーズ、『少女パレアナ』など以外にも、たくさんの翻訳や著作を残しています。花子の著作がどちらかというと女性に読まれることが多い理由は、圧倒的に"すてきな"(優しくて前向きで芯が強い)女性が主人公のことが多いから、と言えそうです。

著作に励む花子 (1958年)

ヘレン・ケラーの歓迎会での花子(中央)
(1955年)

著作に励む花子・大森の自宅にて
(1945年)

花子の著作・翻訳には、ぜひ日本人に読んでほしいと願って翻訳した家庭小説や、海外で名を知られた女性事業家や作家の紹介、クリスチャンの家庭に向けた創作など一貫して一本の太い信念がうかがわれます。

翻訳の前書きや後書きにも、海外の良質な、キリスト教を基盤とした生活を送る家庭を主題とした小説や女性事業家の伝記を読んでほしい、そしておのずから精神的に豊かな成長を遂げてほしい、という強い願いが語られています。
それらは、少女に向け、若い女性に向け、あるいは幼い子どもを育てている若い母親に向けて書かれ、まっすぐ心に届くものでした。

彼女の思想は随筆や評論にもみられますが、実際に婦人矯風会活動や社会問題、福祉事業に取り組み、東京婦人会館(のち産経学園)の理事を務めるなど実践を伴うものでした。

第15・17代校長ミス・ハミルトン
ミス・ハミルトンが校長の時代に制服、校章、標語、
校旗、校歌が制定され、現在にまで引き継がれてい
ます。

"Anne of Green Gables"
『赤毛のアン』の原書。1908年初版本 
(東洋英和女学院大学図書館所蔵)

『続 赤毛のアン(現在、『アンの青春』)』
三笠書房 1955年発行 
(東洋英和女学院大学図書館所蔵)
訳者である花子から、ミス・ハミルトン(第15代・17代校長、
当時は短期大学保育科主任)に贈られたもので、献辞もあります。
翌年、ミス・ハミルトンがカナダに帰国するにあたり、青楓寮(寄
宿舎)に寄贈され、短期大学図書館を経て現在大学図書館が所蔵し
ています。ミス・ハミルトンはプリンス・エドワード島出身という縁もありました。

遺言により、印税が東洋英和女学院に寄付されていた新潮文庫
『クリスマス・キャロル』、『ハックルベリイ・フィンの冒険』、
『フランダースの犬』、『丘の家のジェーン』

学院報「楓園」第14号  1993年11月5日
今から20年ほど前、学院から故人である花子に対し、感謝状を謹呈しました。
そこに印税による寄付のことが記されています。
(2014年度展示より)
※写真クリックで拡大表示します

こちらでお見せ出来るのは村岡花子の人生のほんの一部と花子が生きた時代の東洋英和の歴史です。
花子と東洋英和との出会いが彼女のその後の人生に大きな影響を与えました。婦人宣教師たちから受けた教育、友人たちとのつながりは、花子の核となり、愛する息子を失った時、戦時下でも『赤毛のアン』を守り抜いた時、彼女の支えとなったことでしょう。
女性が自らの意思だけでは生き方を決定できなかった時代にあって、自力で道を切り開き他者のためにも行動を起こす姿は、主体的に生きる女性として本学院の建学の精神である「敬神奉仕」を体現していたと言えるでしょう。

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