第二部 卒業後の花子と東洋英和

同窓会との関わり

息子・道雄と

花子も編集に携わった同窓会会報ほか

花子が寄稿した同窓会会報①目次
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花子が寄稿した同窓会会報②

東洋英和女学校の同窓会は創立10年目の1894年(明治27年)に早くも発議され、翌1895年に第一回目の集会が開催されました。 東京家政学院の創設者である大江スミが同窓会会長となったのは1924年(大正13年)のことでした。

花子が同窓会の会報編集委員となったのは1927年(昭和2年)でした。長男を前年に亡くし、決意を新たに児童文学の翻訳を始めた年です。 その年から、花子が編集に腕を振るい、年1回発行の同窓会会報は以前よりも読み物を増やして情報量もぐんと増えました。

1929年(昭和4年)以降奥付には編集兼発行人として花子本人の名が記されています。
以後、「同窓会会報」は会員の寄稿、動静、学院の近況などを掲載し、同窓生の交流をはかって1940年(昭和15年)まで発行されました。

『東洋英和女學校五十年史』1934年(昭和9年)発行

1932年(昭和7年)に花子は『東洋英和女學校五十年史』編纂委員となり、中心となって、女学校の歴史をまとめます。
この貴重な『五十年史』が無かったら、今私たちは創立の頃や、明治大正昭和初期の東洋英和の様子を知ることができなかったでしょう。

花子が執筆を担当したのは「矯風会と少年禁酒軍」と「編集後記」であり、「水野(菊)さんを偲ぶ座談会」ではメンバーの一人として友人水野菊先生の思い出を語っています。
印刷人は花子の夫である村岡儆三、印刷所は青蘭社。すなわち村岡家の印刷・出版社で製作されました。



写真の文鎮は1933年に新校舎落成記念として作成されたもので、 花子も愛用しました。

「古い卒業生のこと」花子寄稿(創立70周年記念東光会会報より)
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戦後、学院組織が変わると女学校が中学部・高等部となり、その卒業生は東光会会員、会報も「東光会会報」と改められました。
そして、同窓会が戦後の活動を始めた1948年(昭和23年)、 花子は同窓会副会長となり、多忙の身でありながら亡くなる1968年まで、会長である塩原千代氏を助け、常に学院と世間との間に立って同窓生の代表として働きました。
会長の塩原千代とは先輩・後輩の仲でもあり、生涯にわたって親交があったということです。

同窓会会長を務めた塩原千代

創立70周年記念東光会会報 表紙(1954年)

目次

高等部同窓会会報「東光」(1964年)

同窓会副会長であった時の1966年12月に発行された
「東光」No.5に掲載の「自画像」の自筆原稿が学院
史料室に保管されています。

「はがき」は、ミス・ブラックモアの言葉、

「実力を養いなさい。
 実力さえあれば宣伝などしなくてもよい」

と書かれています。これは、1964年、RAC(中高部
宗教活動協議会)が、創立80周年の記念祭発表のため、
宣教師の先生から学んだことや印象に残る言葉を旧教職
員に尋ねた時の返信です。

「自画像」直筆原稿
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直筆の「はがき」

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