東洋英和と村岡花子
東洋英和と村岡花子について
祖母村岡花子は、翻訳家として『王子と乞食』『赤毛のアン』『クリスマス・キャロル』など、今なお愛され続けている物語を数多く世に送り出しました。生前の活動は翻訳にとどまらず、童話作家として、また女性や教育の問題を論じる評論家としても幅広く、生涯を通じて女性の社会的地位向上に力を尽くしました。
こうした花子の歩みを決定づけたのは、10歳から10年間を過ごした東洋英和女学校での学びであったと言えるでしょう。東洋英和は花子にとって、恩師や生涯の友と出会い、聖書の言葉に触れたかけがえのない場所であり、人格形成の原点でもありました。ここで培われた精神と学びが、その後の人生と仕事の礎となりました。
花子が残した仕事を通して、カナダ人宣教師の先生がたが抱かれた教育への信念の一端をお伝えできましたら幸いです。東洋英和女学院の長い歴史の中で大切に育まれた学びと祈りの心が、次代を担う方々にも受け継がれていきますよう心より願っております。
村岡美枝 村岡恵理
村岡花子の孫で翻訳家。英文学を専攻し、訳書に『アンの想い出の日々』(新潮社)、『ウェールズのクリスマスの想い出』(瑞雲舎)、『うわさの恋人』(金の星社)など。
村岡花子の孫で作家。東洋英和女学院高等部の卒業生。NHK連続テレビ小説「花子とアン」の原案となった著書、『アンのゆりかご―村岡花子の生涯』の他、編著多数。
1893-1968 翻訳家・児童文学者・評論家
村岡花子(旧姓:安中)
甲府生まれ。1903(明治36)年東洋英和女学校に10歳で給費生として入学。在学中から友人の柳原燁子(白蓮)に誘われて佐佐木信綱の門下で和歌・日本の古典文学を学ぶ。そこで同じく東洋英和女学校卒業の歌人・翻訳家の片山廣子を紹介されて近代文学に導かれ、のちに彼女の勧めで童話や翻訳を始めることになる。
1913(大正2)年に卒業。山梨英和女学校で英語教師を5年間勤めた後、銀座の日本基督教興文協会(現在の教文館)の編集者となる。1919(大正8)年に印刷会社を営む村岡儆三と結婚。 翌年、長男 道雄誕生。しかし1926(大正15)年に最愛の道雄を病気で亡くしたことをきっかけに、日本中の子どもたちのために外国の家庭文学の紹介をしていくことを自分の進むべき道とし、1927(昭和2)年にマーク・トウェインの『王子と乞食』を翻訳出版。以後、75歳で亡くなるまで、日本を代表する外国の家庭文学の翻訳家として活躍。
L. M. モンゴメリ作『赤毛のアン』シリーズの翻訳が代表作。ほかの翻訳作品に、エレナ・ポーター作『少女パレアナ』、チャールズ・ディケンズ作『クリスマス・キャロル』、パール・バック作『母の肖像』など多数。童話集に『たんぽぽの目』『桃色のたまご』など。また、女学生の頃から矯風会活動に加わり婦人運動にも積極的に関わるなど、女性や子ども、教育などに関する社会問題の解決にも尽力した。英米文化とキリスト教への深い理解に基づき、ヘレン・ケラーの来日時には通訳を務めるなど国際的な場でも活躍した。1960(昭和35)年藍綬褒章を受章。
花子が在学していた頃の東洋英和
この校舎は1899年の建築中に2回の台風により、2度倒壊しました。当時の校長ミス・ブラックモアは大変厳しい指導をしていたと伝えられていますが、この困難に際し、「雨の後に虹は出ます。恵みの虹を信じましょう」と教職員、生徒を励ましました。厳しさの中にも一貫して愛と優しさのある宣教師でした。花子在学時の東洋英和は自宅から通う通学生と、寄宿舎から通う寄宿生がいました。花子は親元から離れ、寄宿生活を送っていました。当時の写真から、花子が在学していた頃の学校生活を垣間見ることが出来ます。
〈当時の様子〉
東洋英和での英語の学び
Sixty Sentences(60の英文)と英語の教科書
英語の教育も徹底して行われていました。そのうちの一つが、ミス・ブラックモアが英語学習のために考案した「Sixty Sentences(60の英文)」でした。当時の寄宿生活の、起床から就寝までを60の短文であらわしたものです。生徒たちはこれを筆記せずに暗唱し、時制を変えたり疑問文や否定文にしたりして学びました。
東洋英和女学校では、『オンタリオ・リーダーズ』というカナダの教科書を使い英語教育を行っていました。
花子は学生時代にカナダ人宣教師から英会話、英作文、英文学だけでなく、世界地理、世界歴史、修辞学、比較宗教学も英語で学びました。
英語に囲まれた学びの環境
このように、日常生活を通して自然と英語が身につけられるような環境が整っていました。午後の授業は毎日英語で行われ、花子は英語漬けで、勉強に励みました。本が大好きで、時間を見つけては書籍室の片すみで熱心に読書し、英米文学の洋書をほとんど読んでしまいました。
文学会での英詩暗唱
学校では「文学会(今の「学芸会」のようなもの)」という行事が盛んで、花子は高等科1年生の時にテニソンの「ダ、リベンジ」という英詩を暗唱しました。
花子が東洋英和で出会った人々
花子には10年間の東洋英和での生活を通し、多くの出会いがありました。その中でも特に柳原燁子(白蓮)と片山廣子との出会いは大きなものでした。彼女たちは在学中、そして卒業後の花子の人生に大きな影響を与え、花子を支えました。
柳原燁子(白蓮)(1885-1967)
歌人。歌集に『踏絵』『幻の華』、詩集『几帳のかけ』。社会主義者、宮崎龍介と出会い、財産も身分も捨てて生涯を共にする「白蓮事件」で知られる。1935年以降、歌誌『ことたま』主宰。
片山廣子(1878-1957)
歌人。翻訳家としては「松村みね子」の筆名を持つ。室生犀星、芥川龍之介、堀辰雄らと親交があり、堀の『聖家族』のモデルとされる。歌集に『翡翠』『野に住みて』、随筆集に『燈火節』、翻訳に『愛蘭(アイルランド)戯曲集第一巻』など。
人生の指針となった恩師の言葉
卒業後の花子と東洋英和
同窓会会報の
編集委員として活躍
東洋英和女学校の同窓会は創立10年目の1894(明治27)年に早くも発議され、翌1895年に第一回目の集会が開催されました。
花子が同窓会の会報編集委員となったのは1927(昭和2)年でした。長男を前年に亡くし、決意を新たに児童文学の翻訳を始めた年です。その年から、花子が編集に腕を振るい、年1回ほど発行の同窓会会報は以前よりも読み物を増やして情報量もぐんと増えました。
『東洋英和女學校五十年史』
(1934年発行)の編纂を推進
1932(昭和7)年に花子は『東洋英和女學校五十年史』編纂委員となり、中心になって女学校の歴史をまとめます。花子が執筆を担当したのは「矯風会と少年禁酒軍」と「編集後記」、「水野(菊)さんを偲ぶ座談会」ではメンバーの一人として友人水野菊先生の思い出を語っています。
印刷人は花子の夫である村岡儆三、印刷所は青蘭社。すなわち村岡家の印刷・出版社で刊行されました。
同窓会や学院の役員を長年に
わたり務める
同窓会が「東光会」の名称となり、戦後の活動を始めた1948(昭和23)年、花子は同窓会副会長に就任します。多忙の身でありながら亡くなる1968年まで、会長である塩原千代(女学校時代の先輩)を助け、常に同窓生の代表として働きました。さらに、東洋英和女学院の理事・評議員も長く務め、学院全体の重要な会議にも出席しました。
英和生の母親として
娘の村岡みどり氏が東洋英和女学院高等部を1951年に卒業しています。
短期大学保育科
非常勤講師として教える
1954年頃から亡くなるまで児童文学および言語指導の講義を担当しました。授業を受けた同窓生は「いつも和服でいらした」「皆、語られるお話しに引き込まれた。ノートを取ることも忘れるほどだった」「(絵本を描いていた同窓生は)先生がお宅に呼んでくださり、アドバイスをくださった」「いろいろ、お薦めの本を教えていただいた」と思い出を語っています。
著作権料を後輩の
奨学金のために遺贈
『ハックルベリイ・フィンの冒険』『丘の家のジェーン』『フランダースの犬』『クリスマス・キャロル』(新潮文庫)の著作権料は、花子の遺言により奨学金に充てるために東洋英和女学院に寄付され、現在に続いています。
『赤毛のアン』の世界と花子の青春時代
1930年代後半、知人のカナダ人宣教師ミス・ショーが帰国に際し花子に託したのが、カナダ人作家のL.M.モンゴメリの作品Anne of Green Gablesでした。そこに描かれたアンの世界には、花子が東洋英和でカナダの婦人宣教師たちから学んだ時代のキリスト教に基づく価値観や教育観、生活文化が豊かにあふれていました。作品の行間に流れる精神を、花子は生き生きと感じ取りました。
戦時中、敵国の言葉である英語で書かれたこの本を、花子は翻訳し続けました。時には防空壕にも原書と翻訳原稿を持ち込み、大切に守りました。
このようにして、『赤毛のアン』は、終戦後の1952(昭和27)年に誕生します。そのあとがきで花子は、東洋英和で受けた教育への感謝とともに、多くのカナダ人の教師や友人たちから受けた友情への感謝を述べ、「この譯業(やくぎょう)を麻布の丘の母校にこもる若き日のおもいでと、今そこに学びつつあるわが心の妹たちにささげます」と結び、開校以来「麻布の丘」=鳥居坂の地にある東洋英和で学ぶ後輩たちへの思いを託しました。
このページで紹介できるのは、村岡花子の人生のほんの一部と花子が生きた時代の東洋英和の歴史です。花子と東洋英和との出会いが彼女のその後の人生に大きな影響を与えました。婦人宣教師たちから受けた教育、友人たちとのつながりは、花子の核となり、愛する息子を失った時でも、戦時下に『赤毛のアン』を守り抜いた時でも、彼女の心の支えとなったことでしょう。
女性が自らの意思だけでは生き方を決定できなかった時代にあって、自力で道を切り開き他者のためにも行動を起こす姿は、主体的に生きる女性として、本学院の学院標語である「敬神奉仕」を体現していたと言えるでしょう。
恩師のミス・ブラックモアは、花子たちの卒業に際して以下のような言葉を残しています。
「今から十五年、二十年、三十年ののちにあなたがたが今日のこの時代を思い返して、なおかつ、あの時分が一番楽しかった、一番幸福だった、と心底から思うようなことが、もしあるとしたならば、私はそれをこの学校の教育の失敗だといわなければなりません。人生は進歩です。今日は昨日よりも良く、明日は今日よりもすぐれた生活へと、たえず前進して行くのが真実の生きかたです。若い時代は準備のときであり、その準備の種類によって次の中年時代、老年時代が作られていきます。最上のものは過去にあるのでなく、将来にあります。旅路の最後まで希望と理想を持ちつづけて進んで行く者であってください。」