2017年度後期大学院入学式 式辞
東洋英和女学院大学の大学院に入学された皆さん、このたびは誠におめでとうございます。社会人対象の夜間大学院であることを十分に認識されてこの場に臨んでおられる以上、皆さんは、職場や家庭において社会人としての責任を果たしながら、ここで専門的な知見の獲得と学問的な研鑽を積まれようと決意されているものと信じます。何よりも、その志に対して心よりの敬意を表したいと思います。
さて、人間科学研究科であれ国際協力研究科であれ、大学院というところは、社会が用意する高等教育制度の最終段階として存在しています。もちろん、人生のすべての時間を通して、人間は学びを止めることはありません。しかし、用意され、準備された環境のなかで、教員や職員の手厚い助けの下で学ぶ機会は、社会人である皆さんにとって、極めて貴重なものになります。そこで皆さんに求められるのは、「独創性」であります。それはすなわち、自分の頭で徹底的に「詰めて考える」という作業からしか生み出されません。考えるべき問題を特定し、それがなぜ起きているかについて自分なりに仮説を立て、それが正しいかどうかを、何らかの方法で確認、つまり検証して結論を導いていく。それこそが、みなさんがこれから獲得すべき「学問の作法」であります。但し、大学院においてはもう一つ重要な要素があります。独創性の「独」は、孤独の独であり、独立の独でもあり、要するに一人という意味ですけれども、皆さんは決して一人ではない。共に歩む院生仲間がいます。研究の先達である教員がいます。さらには、歴史の彼方から文献や業績を通じて皆さんを啓発してくれる学問上の偉人たちが控えているのです。これらの仲間・先達・偉人たちとの交わりの中から「独創性」なるものが立ち現われてくるのです。
少々長くなりますが、皆さんもおそらくご存知の、ある書物から引用して、そのようなプロセスの具体的事例をお示ししたいと思います。
「ある日、鼻のところで、『鼻はフルヘッヘンドしたものである』という個所にぶつかったが、この語がわからない。これはどういうことなのだろうとみんなで頭をひねったが、どうにもならない。その当時は『ウォールデンブック』(辞書)というものがなかった。ただ長崎から良沢が買って帰った簡単な小冊子があったので参照したところ、フルヘッヘンドの注釈に『木の枝を切り取ればそのあとがフルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵や土が集まってフルヘッヘンドする』というような意味にとれた。これはどういう意味だろうと、また例のようにこじつけで考えてみるが、どうもわからない。そのとき、ふと私は思った。『木の枝を切った後はなおれば堆くなるし、また掃除をして塵や土が集まればこれもまた堆くなるのだ。鼻は、顔の真ん中にあって堆くなっているものだから、フルヘッヘンドとは、堆いということだろう。だからこの単語を堆いと訳してはどうだろう』と言ったら、みんなこれを聞いて『いかにもその通りだ。堆いと訳せば当たるだろう』ということに決定した。そのときの嬉しさは、何にたとえようもなく、世の中で一番貴い宝玉を手に入れたような気持であった。」
これは、江戸時代の蘭学者たちがオランダの解剖学の書物である「ターヘル・アナトミア」を四年がかりで翻訳して「解体新書」として刊行したときの苦労話を綴った、杉田玄白の「蘭学事始」の一節であります。「自分の頭で考える」とか、「独創的な研究を行う」というのは、要するにこういうことなのだと思うのです。
皆さんは一人ではないということについて、最後にもう一つ触れておかなければなりません。本日の、この入学式の形式を見てもお分かりになるでしょうが、本学は建学の精神をキリスト教に負っています。もとより、皆さんは一個の独立した社会人でありますので、当然ながらキリスト教の信仰を強制されることはありません。大学や大学院が学問の場であり、討論議論の場である以上、健全なキリスト教批判、宗教批判は十分に可能です。それでも、本学に在籍する以上、これまでキリスト教に馴染みが薄かったとしても、キリスト教の本質についての基本的な理解は身に付けていただきたいと願います。その本質を表す主イエス・キリストの言葉の一つは次のように述べられます。「すべて重荷を負うて苦労しているものは、私のもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。皆さんは、決して一人ではありません。
皆さん、東洋英和女学院大学大学院にようこそ。私どもは皆さんの御入学を心から歓迎します。願わくはここでの研鑽が、みなさんの今後の人生を支える柱となるものでありますように。この祈りを以て、私の式辞といたします。
2017年9月16日
東洋英和女学院大学
学長 池田明史