外交文書公開に関する備忘録

2013年03月04日

国際協力研究科 増田弘

masuda.jpg外交文書公開に関する備忘録
―1971年の昭和天皇・ニクソン会見をめぐってー
 
(1)去る2月28日、外務省は恒例となった日本外交文書の解禁を公表した。計72ファイル、恐らく全体で数万枚は下らないであろう。当然ながらマスメディアは、一体何が今回の“掘り出しもの”なのか、“目玉”は何のかと血眼で探りを入れることになる。そこで毎回、公開された外交文書の分野に精通すると思われる専門家や研究者、大方は大学教授が報道側の助っ人として駆り出される。幸か不幸か、今回は私がその標的の一人と相成った。しかも共同通信社、読売新聞社、NHKと3社が連なることとなった。 
 以下、今回の外交文書公開の概要に触れた上で、その中での最重要文書と考えられる「1971年9月の昭和天皇・皇后両陛下のアンカレッジ訪問時における天皇・ニクソン大統領会見顛末」を備忘録として、ここに論述しておきたい。
 
(2)本論に入る前に、全文書について若干のコメントをしておきたい。今回の公開文書は大きく6グループに分けることができる。ⅰ)は連合軍の本土進駐に伴う日本側、主に外務省の出先機関である終戦連絡中央事務局(いわゆる終連)の対応文書で、第1~19ファイルである。ⅱ)は日本人の身元調査に関するGHQ依頼文書で、第20~23ファイルである。ⅲ)は対日平和条約実施関係文書で、第24~36ファイルである。ⅳ)は昭和46年(1971)天皇皇后両陛下の訪欧文書で、第37~52ファイルである。ⅴ)は戦犯裁判関係雑件文書で、第53~70ファイルである。そしてⅵ)が対日賠償問題雑件文書で、第71・72ファイルである。
 前述のとおり、これらは大量に及ぶため、予め重要と思われるものを各概要から選別し、上記ⅰ)の第1・2ファイル、ⅳ)の第37~39ファイル、そしてⅴ)の第55~58および61・65ファイルの、計11ファイルの約2千枚程度が段ボール箱2個に詰められて拙宅に運ばれ、それを3月2日の丸一日と3日午前中にかけて集中的に目を通すこととなった。ⅳ)を除けば、ほぼすべてが60年以前の占領時代の代物であるため、紙質が悪く印刷も不鮮明で、目の負担がきわめて重く感じられる作業となった。
 その結果、残念ながらⅰ)およびⅴ)のファイルはこちらの期待に反して空振りとなり、ⅳ)の中の第38と39の両ファイルの一群の文書に光明を見出すこととなった。そこで以下、1971年9月27日から10月14日に至る(いずれも日本時間)両陛下御訪欧時の初日におけるアンカレッジでの昭和天皇・ニクソン米大統領会見文書に限定して、その政治的顛末を論述する。
 
(3)そもそも日本側からすれば、天皇・皇后両陛下ご訪欧の途次、米国アラスカ州アンカレッジに立ち寄るのは給油と休息のためだけであった。政治性は絶無であった。ところが米国側、とくにニクソン大統領ないしその周辺から、この天皇の米国立ち寄りを好機ととらえ、政治利用する動きが突然起こって来る。その結果、日米双方の思惑がぶつかり合い、日本側は徐々に米国側に譲歩を重ねていくことになる。
 ではなぜそのような日米間の相違が生じたのか、その背景、とりわけニクソン政権側の政治的意図とはどのようなものであったのか。また日米間の外交交渉の推移とはどのようなものであったのか。最終的な交渉結果はどのようなものとなったのか。そして天皇・ニクソン会見は歴史的にどのような意義をもったのか。これらが本件をケーススタディの主題として取り上げる際の問題提起となるであろう。
 なお日本側文書を精読するに当り、やはり公開されたばかりの米国側文書、具体的にはホワイトハウス、国務省、NSC(国家安全保障会議)文書を用いて、事実関係を立体化していくことにする(その点で本学図書館の鷺谷・青山両司書のご協力に感謝したい)。
 
(4)ではいかにして本件が日米間の外交課題となっていったのか。
 まず事の始まりは、1971年2月22日付の極秘文書で、ワシントンの牛場信彦駐米大使から東京の本省宛に、「(在米大使館の)黒田をしてグリーン国務次官補を往訪せしめ、…(天皇・皇后両陛下の)アンカレッジ御休養の通報」を行った際、「同席したエリクソン日本部長は本件公表後、天皇陛下は米国を近く訪問されるかとの質問が必ず報道機関より出てくると予想されるが、これに何と答えようか」と質したことにあった。そこで牛場は同日付の本省宛極秘文書で、本件発表とともに在京米記者より、①今回米国を御訪問されない理由、②今後の御訪米の見通し等について質問が提起されると予想され、エリクソンの質問もあり、「その応答振りにつき大至急回電たまわりたい」と本省に要請した。
 これに対して翌23日、愛知揆一外相は「わが国と米国との友好関係を考えるとき、同国を訪問になることは考えられることである。しかし今回ヨーロッパに引き続き米国を御訪問になることは、日程にさらに相当長期間を組込む必要があり、1回の御旅行としては無理なので、今回においでにならないこととした」との極秘の返書を牛場に送った。さらに愛知は同日、秘密の大至急文を牛場に送り、「両陛下には、往路は9月27日昼頃、帰路は10月14日午前に特別機の給油及び御休息のため大々数時間、貴地に滞まられる予定である。ついては、お見込みにより州政府にこの旨通報の上、その際の然るべき便宜供与方依頼しおかれたい。尤も貴地では御休息が目的であるので州政府等による接遇は何等期待しおらず、むしろ遠慮したい。…御休息に適当なホテル等あらば電報ありたい」と念を押した。また翌24日に愛知は在アンカレッジ郎領事に対して、9月27日夕方の東京発から10月14日午後の帰着までの日程を送付したのである。
 以上のように、この時点では日本側はアラスカ州政府関係者との会見など考慮しておらず、ましてや米大統領の登場などまったく予想していなかったのである。ところが半年を経過した8月初頭から状況に変化が生じる。
 
(5)8月5日、牛場大使は外相宛に極秘文書を送り、ジョンソン国務次官からの伝達を報告した。①ニクソン大統領においては天皇陛下の御訪欧途次アンカレッジお立ち寄りの際、日程が許せば自ら出迎えたいとの強い希望を有し、至急日本側と折衝方を命じられた。②このためアンカレッジにおける滞在を少なくも2時間程度とし、両元首の会見にふさわしいDIGNITYを確保する必要があると思う(単に給油時間を利用するという印象を避けたい)。③在京米大使館が宮内庁より聞いたところでは、天皇陛下は9月27日午前9時55分に羽田発、26日午後10時40分アンカレッジ着、同11時40分発のご予定と承知する。他方ニクソン大統領は予定行事の関係上、26日サンクレメンテよりアンカレッジに飛来し、同夜ワシントンに直行せねばならない。よって羽田御出発を1時間繰り上げ(即ち27日午前8時55分)アンカレッジ着を26日午後9時40分として2時間ご滞在されることが可能であれば最も好都合である。④本件はもとより主として日本側の御都合によることであるが、大統領のせっかくの希望でもあり、もし実現することができれば日米関係のため何物にも勝る有益なことと考えるので、是非とも日本政府の好意的考慮をわずらわしたく、至急回答を得たい。⑤発表については慎重に打ち合わせたい。発表まで絶対極秘に願いたい。⑥目下のところニクソン夫人が大統領に同行する予定はない。
 ではなぜジョンソンはこのような行動に出たのか。8月2日午後6時10分、ジョンソンはキッシンジャー大統領補佐官との会話の中で、目下の天皇のアンカレッジ予定ではニクソン大統領が面会できないこと、だから暗に日本側と時間の調整をキッシンジャーから依頼されている(<TELCON> Amb. Johnson/ Kissinger, President Nixon to Meet with Hirohito, Aug 02, 1971 6:10p.m., DIGITAL NATIONAL SECURITY ARCHIVE 以下同じ)。つまり、ニクソンから直接命を受けたキッシンジャーがジョンソンに指示したのである。ニクソン本人ないしその周辺が天皇との会見の政治的意義を見出したからであろう。
 そこで牛場は米国側の意向を受け入れ、天皇一行の東京出発時刻の繰り上げを提案する。
7日、外相の福田赳夫(7月5日就任)が入院中のため臨時代理外相となっていた木村俊夫から牛場へ、「当地御出発を30分繰り上げ、アンカレッジ御出発を30分遅らせる方向で検討中」との返信が届けられた。ところが9日付の牛場から外相宛極秘文書では、同日ジョンソンに伝えたところ、「御到着1時間繰り上げ」を要請してきたのである。
 ここから本格的な日米交渉が開始される。
 
(6)米国側の唐突な提案に対して11日、訪欧の準備本部長から牛場へ極秘文書が送られ、①皇居0900発もアンカレッジ着26日2240は相当の無理があり、米側が1時間繰り上げを要求する具体的根拠を承知する必要がある。②大統領のワシントン着は、アンカレッジ御出発を見送るのでない限り(当方はこれを期待しない)、いずれにせよ27日朝になると思われるが、米側は御会見の時間割をどのように考えているのか承知したい(わが方としては御到着直後から30分位が適当ではないかと考えている)。③御会見は通常の元首御会見の例に従い、両陛下と大統領(夫妻)のみで行われるものと了解する。以上の3点を提起した。要するに、天皇会見の米国側の意図がわからないと指摘したわけである。
 そこで牛場は11日にジョンソンに真意を質すと、ジョンソンは、①これまで大統領のほかはロジャーズ国務長官、キッシンジャー等極めて少数者以外には全く秘匿されていたため、アンカレッジにおける行事はこれから早速人を同地に派遣して固めるので約1週間を要しよう。従って御質問には直ちに答えられない。②アンカレッジ滞在を2時間とすることに同意されたのはアプリシェートするが、日本案では27日午前0時10分となり、遅すぎるのではないか。③首脳会談の際の米国側の慣行は、先ず両首脳のみで30分間、引き続き30分間随行者を交えて会談することである。大統領にはロジャーズか自分、あるいは双方が同行することが確実なので、陛下のお疲れ誠に恐縮であるが、折角の機会なので右の慣行に従い御二人限りでお会いになった後、米側上記随行者、日本側福田外相と恐らく島式部官長を交えて会談することを御承諾願いたく、合計1時間をこれに充てても陛下のお休みの時間はあるのではないか。④大統領は陛下をお出迎えするのみでなく、御出発の最お見送りするだろうというのが自分の感じである、と答えた。
 
(7)このようなジョンソンの回答に対して、16日、木村外相代理から牛場へ以下の方針が伝えられた。1.対米協議の骨子は、①大統領のアンカレッジ出迎えは純粋に儀礼的のものとし、絶対に政治色を帯びさせないこと。②大統領の厚意は多とするが、そのため両陛下の御行動や、デンマーク側に余り迷惑を及ぼしではならないこと。③御会見には皇后陛下の御同席が絶対必要である。2.発着時刻の変更はアンカレッジにおいて如何なる行事にどの程度時間が必要かが判明してから考えるべきであって、行事の内容も不明のまま2時間御滞在を固執する米側態度は理解に苦しむところである。(わが方は2時間に同意したつもりはない。)3.①ジョンソンの言う首脳会談の米側慣行なるものは、政治会談の場合であり、今回の場合には必ずしも適合しない。(例えば英国女王が訪米した場合、この方式が適用されるとは思われない。)②差当り、わが方としては「御召機到着、大統領は機側でお出迎え。出迎え諸員御紹介の後、両陛下を御会見の場所に誘引。(大統領夫人同伴の場合は同夫人を交えて)御会見約30分。両国外務大臣ご挨拶のため伺候約10分。次に両陛下は御休所にお入りになり御休息。御出発時大統領がお見送りになる場合は機側でお別れの御挨拶。」③御会見の場所は空港内を希望するが固執しない。④御休息時間は適宜圧縮可能であり、コペンハーゲン着が日没後余り遅くならないことが要件である。
 米国側もこのような日本側の強い反発を考慮したのか、次のように譲歩した。18日の牛場から外相宛の極秘文書で、「米側としては御到着を30分繰り上げ22:10、御出発を30分繰り下げ、27日00:10とすることとしていただければ結構である。…当初予定通り23:40のままとすることができるか否かは、陛下の御休息時間次第」である。21日にアンカレッジにホワイトハウス及び儀典関係者を派遣し、同地で具体的な空港建物の施設等を点検の上、御会見の場所その他を決定する。翌19日には牛場から、日米両国での会見に関する公表を日本側の要望通り21日で同意することと、大統領夫人の同伴を決定したことが伝達された。
 こうして21日、宮内庁は、「この度、アメリカ政府から天皇皇后両陛下ヨーロッパ諸国御訪問の途次、同国アンカレッジにお立ち寄りの際、ニクソン大統領閣下が御出迎えになる旨通報があったので、両陛下は9月26日(現地時間)同地において同大統領閣下と御会見になることとなった」と簡単に公表した。
 米国側でも現地の20日に、「Statement by the President」と「Press Guidance for President’s Nixon Trop to Anchorage to meet the Emperor of Japan - Sep 26, 1971」が発表された。ここでは、①北京訪問に対する日本の反発を避ける、②この出迎えは通常の大統領としては異例の行動である、③天皇の最初の外国訪問である(1921年の訪欧は皇太子時代)、といった諸点が強調されていた。また質疑応答の中で、①天皇の公式な米国訪問を、米国はいつでも歓迎する、ただし現在はまだその決定には達していない、②大統領の訪日に関しては現在は何もなく、将来適当な時期に訪日したい、と明らかにされた。
 これに対して『ニューヨークタイムズ』は社説「NIXON HIROHITO MEETING」で、この決定はニクソンの外交および経済文やの措置により日米関係が悪化した現時点における日本国民に対するジェスチャーである。本件決定は日本で歓迎されているが同時にインテリ層の中には陛下が政治的に利用されるのではないかと案ずる向きもある」と報じた。
 以上で天皇とニクソンとのアンカレッジ会見の概要が固まったわけである。
 
(8)8月26日、木村臨時外相は牛場大使へ極秘文書を送り、次のようなアンカレッジでの行事が23日夜来日したモスバッカー儀典長との打合せで決定したと伝えた。すなわち、①アンカレッジ現地時間26日2200着、2340発の1時間40分御滞在、②空港は施設及び行事の都合からElmendorf空軍基地に変更、③大統領夫妻が機側で迎え、栄誉礼、両国国歌吹奏、陛下及び大統領による閲兵、④格納庫内にて大統領の歓迎の辞、陛下の御答辞、出迎え者の紹介、⑤車で御同乗、アラスカ地区軍司令官邸に到着、10分間両陛下・大統領夫妻の身で」御歓談。次いで夫人は皇后陛下を近くの迎賓館に御案内。皇・大統領はお二人のみにて30分間御会見。⑥この間(40分)福田大臣・ロジャース長官、キッシンジャー、牛場、マイヤー両大使等は迎賓館に直行し、会談(少なくとも外部に対しては政治向きの会談ではなく、一緒に待っていたものとしたい。)⑦その後前記⑥の者は司令官官舎に赴き、陛下及び大統領に謁見(10分)。⑧大統領夫妻が車で両陛下と同乗、空軍基地に向かい、御出発を見送る。
 ここで初めて米国側が、天皇・ニクソン会見と同時間帯にロジャーズ、キッシンジャー、マイヤー、福田、牛場らの日米随員間会談を行うことを提示したのである。しかし依然として日本側は政治会談とならないように枠をはめようとしていた。それは同日に再度、日本側が、①天皇一行のアンカレッジ御滞在を1時間40分とする。そこで東京出発を約30分早め、現地着は26日午後10時とし、同地出発は当初予定通り11:40とする(デンマークに迷惑はかけない)。⑤天皇陛下は引き続き大統領とお二人だけで30分間御会見になる。⑥この間、福田大臣以下若干の随員は、前記の迎賓館に直行、ロジャース、キッシンジャー等と同所で会談する(この会談は、少なくとも外部に対しては、政治向きの話をしたことにしないで欲しい旨米側に要請しておいた)。このように念を押していた。
 しかし実は同じ28日朝8時、佐藤栄作首相の意を受けた若泉敬(吉田と名乗る)がキッシンジャーと電話会談をしていた。その中で若泉は、①佐藤がまず来年(1972)夏に公式の訪米を行い、そのあとにニクソンの訪日を実施する、②今回の天皇の訪問に佐藤が同伴し、アンカレッジでのニクソンとの首脳会談を行う、という点を提案していることは注目に値する。若泉は沖縄返還交渉と日米繊維交渉の裏舞台で活躍していたばかりでなく、この天皇の外遊にも絡んでいたことになる。
 
(9)9月13日、現地の下見調査を踏まえて次のような9月26日の核心部分が固まった。「22:00天皇のエルメンドルフ空軍基地着(平服)、ニクソン大統領夫妻お出迎え。22:57両元首御会見(皇后陛下は別室へ)。23:40アンカレッジ発」とする。次いで18日、当日の日程が明らかになった。すなわち、①日本側参加者に侍従長と式部官長を追加し、福田外相、牛場大使、宇佐美宮内庁長官、侍従長、式部官長、侍従次長、儀典長等とする。②当日は午後9:50大統領夫妻到着、9:57御召機着、9:58大統領夫妻機側へ、10:00両陛下着、10:05-07儀仗兵閲兵、大統領と天皇顔合わせ、10:12大統領挨拶、10:17-25天皇挨拶、10:30-40司令官邸へ着、10:45-55写真撮影、11:00夫人と皇后、別室へ移動。大統領と天皇会談開始、11:20日米随員迎賓館を発ち迎賓館へ、11:25大統領と天皇に合流:ロジャーズ、キッシンジャー、グリーン、マイヤー、モスバーガー、福田、牛場、宮内庁長官、侍従次長、儀典長、11:30バス、空港へ、11:35会談終了、11:50大統領夫妻が両陛下に挨拶、11:55御召機発、12:05大統領夫妻、迎賓館着。しかしこれら日程は米国ペースで決定されていた。 
 20日、退院して外相に復帰した福田は次のような怒りをもって反論した。①Top4御会談時間(イ)が随員入室後の時間(ロ)より短くなるのは絶対に不可であることは、先般モスバッガ―来日の際、当方から十分説明しておいたに拘らず、Duval提示の案において(イ)を10分、(ロ)を20分とし、しかも前者は写真取材で終止することになっているのは、わが方として理解に苦しむ点である。②(イ)を御会談の最重要部分とする考え方は、わが方として譲り得ない一線である。米側には(ロ)にかなり重要性を置いているやに想像されるが、実際問題として大統領を前にして天皇陛下が両国外相等と挨拶以上の会話に入られることは考えられず、この部分に時間をかけることは無意味である。
 依然怒りが収まらなかったのか、その1時間半後に福田は再び牛場に次のような電文を送った。①現地米側はアンカレッジが欧州諸国御訪問の途中のお立ち寄りに過ぎないことを忘れたかの如き非常識な提案を行う有様で、わが方としては迷惑千万である。②わが方としてはTop4の御会談が主であるべきで、これを写真撮影に終始させるような考え方はわが方として到底受け入れられない(但しモスバーガーの要望を入れてTop2の単独御会談により長い時間を割くことは同意する)。③政治的会談ならば、Top2の単独会談に続いて随員を加えて会談ということも考えられるが、今回の場合、随員は御挨拶以外には何等の役割を有しないものであるから、この部分にTop4よりも長い時間をかけることは、日本人には天皇陛下を政治会談に引き込まんとしたとの印象を与えるのみで、米側にとっても決して望ましいことではないと信じる。
 福田は「非常識な提案」とか「迷惑千万」といった激しい表現をもって反駁した。つまり、彼は随員間の会談が米国側の主たる政治目的であることを理解せず(あるいは察知しながらもそれを拒む)、あくまでも天皇・ニクソン会見を主とし、随員間会談を副とすべしとの考え方に固執したわけである。
 しかし日本側は米国側の要求を退けることはできず、結局上記の日程を受諾する。そして、26日当日の「両陛下御動静報告」(29日付の外務省吉田担当官報告)は、次のように伝えていた。①当日は快晴、珍しい秋日和、日中で摂氏5度、当日は市民の歓迎盛大、8時基地開門と同時にエンメンドルフ空軍基地へ続々と押し寄せる、②ニクソン大統領夫妻は21時5分に格納庫前に到着、所定の位置で陛下の到着を待たれた。③御召機は定刻通り22時00分格納庫前に到着。両陛下がタラップ上にお出まし、会場から激しい拍手と歓声、一瞬興奮のるつぼと化した。④タラップを降りて大統領夫妻と劇的な握手、約6千名の観衆、VIP300、VVIP40人、在留邦人が見守る中、空港における式典終了後、陛下はお振り向きになりお帽子を振ったことに、拍手が巻き起こった。⑤歓迎式典終了後、VVIPの州知事、市長、ヒッケル内務長官、アラスカ軍総司令官、空軍司令官が挨拶。⑥陛下と大統領の歴史的な御会見については、大統領がお出迎えのため当地に赴くという報道があって以来、当地の各紙はいうに及ばず、テレビ、ラジオ及び空軍基地内の新聞に至るまで報じる。⑦行事はすべて予定通りの時間帯でスムーズに行われ、何事もなく無事終了した。⑧9月26日23時48分、アンカレッジ出発
 

(10)9月26日午後10時35分から11時25分の間、天皇とニクソンは一体何を話し合ったのだろうか。今回の記録文書は何ら明確にしていないため、想像の域を出ないが、少なくとも天皇が敗戦後の日本の復興と発展のために貢献してくれた米国への感謝の念をニクソンに表明したことは間違いであろう。むしろ、その元首会談の陰に隠れた随員間会談、とくにロジャーズ、キッシンジャー対福田、牛場会談こそ重要な意味を持っていたと想定できる。恐らく双方は、①近く予定されているニクソンの北京訪問の意図、②8月15日に発表された米国の新経済政策、いわゆるドルショックに関する釈明、③天皇の公式の訪米要請とニクソン大統領の初の訪日要請、を討議したであろう。この40分間の会談内容に関する外交文書こそ、来年ないし早期に公開が待たれるであろう。

前へ
一覧へ戻る