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2018年度3月期学位授与式 式辞

修士号を授与されて、本日ここに晴れて修了および卒業されるみなさん、おめでとうございます。みなさんの在学中のご努力に対し、衷心より敬意を表したいと思います。ご家族の方々もさぞお喜びのことと拝察いたします。また御来賓の皆様には、ご多忙のなかをご参列いただき、こころから感謝申し上げます。


 言うまでもなく、学位を授与されるということは、授与する側、すなわちこの東洋英和女学院大学がそれぞれの学位に相当する能力を世の中に対して保証するということにほかなりません。このことについて、私は、数年前の学位授与式においてある種の疑念を申し述べた記憶があります。文部科学省などが要求している、いわゆる三つのポリシーが、あたかも工業製品の規格基準と同様の発想に立っているのではないか、という疑念でした。つまり、どの程度の基準を満たせば、修士や博士の学位を与えるのか、その基準と方針を示せというディプロマ・ポリシーも、そのような基準を満たすための能力をどのような指導によって獲得させるのかというカリキュラム・ポリシーも、さらに、そうした教育や指導に堪えて立派に育っていくような人間をどうやって発見し、選抜し、受け容れているのかを示せというアドミッション・ポリシーも、どれもこれもが工場や生産現場における工業製品の規格設定や品質管理の論理と瓜二つではないのか、と疑ったのでした。

私自身は、このような論理や発想にはどうしても違和感を禁じ得ません。高等教育の教育現場である大学や大学院が、さながら工場や企業と同列に扱われていいのか、といまだに憤慨することしきりです。原材料として社会人を仕入れてきて、数年間をかけて技術や知識や能力を身に付けさせ、一定の品質になったら社会の求める「人材」として世の中に送り出す。そのような発想は、世の中を市場(マーケット)としてのみ理解しているところから出てきているのではないでしょうか。

実際、現代人は、「社会の諸関係はすべて商取引をモデルに構築されている」と考える傾向にあるように思います。一方に売り手がいて、他方に買い手がいる。それが市場を形成し、そこで商品やサービスと貨幣が取り交わされる。たしかに、資本主義経済体制の中に私どもは生きているのですから、たいていの社会関係はマーケットにおける取引を基礎にしたスキームで理解されるのは、当然といえば当然のことなのかも知れません。

けれども、それらの中には、商取引の比喩では論じることができないものもあるのです。専門的な用語では、これを社会的共通資本と呼びます。原理的に言えば、それは個人の恣意にも、政治的イデオロギーにも、市場の需給関係にもかかわりなく保全されなければならないものです。それが安定的に機能していないと、私どもの共同体としての社会はもたなくなるからです。

私たちは、工業製品を生産しているのではありません。人間は材料ではないし、製品でもありません。大学や大学院で獲得する技術や知識や能力は、それを社会においてどのように活用するかを考える頭と、何のために活用するのかを感じる心とがセットになっていなければ意味を持ちません。本学がみなさんに学位を授与するのは、ただ必要な単位を修得したから、論文審査を通過したから、というにとどまりません。高度職業人として出発するにあたり、そのような強い頭としなやかな心を十分に涵養したものと認定したからでもあります。みなさんの研究活動とその成果としての学位論文には、社会的共通資本としての要素を認めることができるからこそ、学位が授けられるのです。


 最後になりますが、学位記とともに、皆さんのお一人おひとりに黄色い水仙の花をお贈りいたします。これは幼稚園から高等部までの卒業式では古くから行われている慣行で、その起源は戦前にまで遡ります。東洋英和所縁(ゆかり)の地であるカナダでは、黄色い水仙は主であるキリストの受難と復活を記念するこの時期に一面に咲き誇るところから、レントリリー(「受難節の百合」)とも呼ばれる花です。復活のキリストを仰ぎ、その光の中を一歩一歩着実に、雄々しく歩んで行って貰いたい。そのような思いの下に、開学から四半世紀という、英和ファミリーのなかでは最も若いこの大学院においても東洋英和女学院の伝統に倣うこととしています。この一輪の黄水仙に込められた東洋英和135年のスクールモットーである「敬神奉仕」の四文字を革めて胸に刻んでいただきたいと思います。「敬神奉仕」を建学の精神とし、キリスト教に基盤を置いた全人教育を目指す東洋英和女学院大学大学院で培った、社会的共通資本を十全に活用されることを祈りつつ、これを以て私の式辞といたします。


2019年3月16日

東洋英和女学院大学

学長 池田明史

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