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2016年度3月期学位授与式 式辞

式辞

修士号を授与されて、本日ここに晴れて修了されるみなさん、おめでとうございます。みなさんの在学中のご努力に対し、衷心より敬意を表したいと思います。ご家族の方々もさぞお喜びのことと拝察いたします。また御来賓の皆様には、ご多忙のなかをご参列いただき、こころから感謝申し上げます。

 東洋英和女学院は幼稚園から大学そしてこの大学院までを擁する総合教育機関でありますので、この時期は各学部で卒業関連の行事を重ねているところです。学部の卒業式・謝恩会に続き、一昨日は大学付属幼稚園の、そして昨日は高等部の卒業式が行われました。皆さんもご承知のように、今月はあの東日本大震災から六年目にあたります。おととい幼稚園を卒業してこの四月から小学校に入学する子供たちの中には、大震災の衝撃で陣痛が早まって生まれてきたという園児も含まれておりました。きのう高等部を巣立っていった卒業生は、震災直後の四月に英和の中等部に入学した生徒たちでした。私どもは否応なしにこの六年という歳月の重みを感じざるをえません。しかし同時に、そのような個人の感懐とは別に、私どもの社会には、前に進むために今一度胸に手を当てて考えてみなければならないことがあるように思えてなりません。簡潔に申し上げればそれは、「正しく(おそ)れる」という姿勢を見失ってはいまいかと問うことであります。

 皆さんは、人間科学あるいは社会科学の修士という学位を授与されたわけですが、「正しく畏れる」姿勢とは、この「科学」、Scienceという概念をどのように理解するかという問題と関わってきます。私たちはある時点まで、科学の発達は社会を発展させ、生活を豊かにすると信じて参りました。それは、あたかも科学はすべての現実と知識を記述できるとでもするかのような信憑にほかなりません。自然も、社会も、いずれは科学の力によって人間の思い通りに加工し、設計し、あるいは創出することさえできるようになる。人間が自然の脅威や人間性の本質といった事象に対して畏怖の念や恐怖の感情を持つのは、非科学的であり、合理的ではない。このような科学万能主義、科学崇拝とでもいうような風潮が一世を風靡していたのは、それほど遠い過去の話ではありません。

ところが今日、「進歩」の理念は、急速に失われつつあります。東日本大震災や昨年の熊本の震災といった大きな自然災害を重ねてきた今、私どもはこれまでのように、この社会の安全が科学技術の進歩によって担保されているという神話を単純に信じることができなくなっています。むしろ逆に、科学や技術の進歩があるレベルを超えると、それはどんどん人の手から離れていくように感じているのではないでしょうか。高度化しすぎた科学のどこかに、もしも致命的な(ほころ)びがあったらどうなるのか。フクシマ原発事故の経験は、まさにそのような不安を現実化させたのです。同様に、経済や生活条件の改善は見えにくくなり、環境をはじめとして、これまで「進歩」の名の下に私どもが失ってきたものの大きさを革めて目の前に突き付けられているのが現在の状況だと言えるでしょう。

そうなりますと、振り子は反動で逆の方向に大きく振れてしまいます。漠然とした不安の中で、得体の知れない噂話やデマ、いわゆる流言蜚語の類に振り回されてしまうような心性(メンタリティ)が簡単に出来上がってしまうのです。フクシマから避難してきた小学生の男の子が、放射能汚染と囃し立てられて周囲から壮絶ないじめを受けていたという事実が発覚し、物議を醸しているのは御承知の通りです。震災後相当の年月が経っても、ほかの被災地には看護師や臨床心理士の資格を持った女性のボランティアが集まるのに、被爆の恐れはないと検証されている地域であるにもかかわらずフクシマにはなかなか集まらないという話も耳にします。これらの事例は、科学的根拠にまったく基づかない漠然とした不安がそのまま無批判の「恐怖」に結びついている結果だと考えられるでしょう。

一方で、科学崇拝は人間の傲岸不遜が「真理への畏怖」を覆い隠してしまいます。他方で、その同じ人間の傲岸不遜は科学を無視した「闇雲な恐怖」を蔓延させることにもなるのです。私どもは、そのいずれの陥穽をも避けて、「正しく畏れる」途を辿らなければなりません。夏目漱石の弟子で、文人でもあり、戦前日本を代表する物理学者でもあった寺田寅彦が次のような文章を残しております。「科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンのいろいろな種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の基準になるべきものでなければなるまいと思う。勿論、常識の判断はあてにはならないことが多い。科学的常識は猶更である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に『科学的な省察の機会と余裕』を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるようなことがあっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと思われるのである」。私の申し上げる「正しく畏れる」姿勢とは、まさにこのような心構えのことにほかなりません。

さて、六年前の大震災直後、本学においては学部の卒業式や謝恩会は中止となりました。大学院のこの学位授与式のみが挙行されております。そのときの修了生の中でひとりだけ、授与式に出席できなかった方がおりました。彼女は、すでに被災地に飛んで支援活動に着手していたのです。かつて都心の赤坂で診療所を営んでおられたこの方は内科のお医者さんで、AMDA(Association of Medical Doctors of Asia)という、いわば国境なき医師団のアジア版の組織に関わっていました。私よりも年配の女医さんですが、震災直後の混乱した状況の中で、さまざまなリスクを冷静に分析しつついち早く現地の避難所に飛び込んで被災者の診察に邁進していたのです。私には、この方のこの一連の行動の基盤に、「正しく畏れる」という態度、すなわち真理に対して謙虚であり、自分に対しても他人に対しても誠実であるという生き方がしっかりと据えられているように思えて、羨望を禁じえませんでした。東洋英和の建学理念である「敬神奉仕」は、「正しく畏れる」ところから始まる。このような思いを強くしたのであります。この方はまぎれもなくみなさんの先輩になるわけですから、ここでご紹介申し上げた次第です。

最後になりますが、大学は、修士号の学位記とともに、修了生お一人おひとりに黄色いスイセンの花をお贈りしようと思います。これは幼稚園から高等部までの卒業式では古くから行われている慣行で、その起源は戦前にまで遡ります。東洋英和所縁(ゆかり)の地であるカナダでは、黄色い水仙は主であるキリストの受難と復活を記念するこの時期に一面に咲き誇るところから、レントリリー(「受難節の百合」)とも呼ばれる花です。復活のキリストを仰ぎ、その光の中を一歩一歩着実に、雄々しく歩んで行って貰いたい。そのような思いの下に、学院の本部および後援会のご理解とご協力を賜って、英和の中でも最も若くまたもっとも小さな組織であるこの大学院においても、学院の伝統に倣っております。願わくはみなさんが、この一輪の黄水仙に込められた東洋英和のスクールモットーである「敬神奉仕」の四文字を革めて胸に刻んで、「正しく畏れる」姿勢を忘れることなく、前に踏み出して行っていただきたいと思います。みなさんのますますのご活躍を祈りつつ、これを以て私の式辞といたします。

2017318

東洋英和女学院大学

学長 池田明史

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