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翻訳家、児童文学者

東洋英和女学院卒業部⾨

掲載日:

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職種

クリエイティブ・芸術系 教育・保育系

村岡花子

1903年東洋英和女学校に給費生として入学。1913年卒業後、山梨英和女学校の英語教師として赴任。1919年退職後、キリスト教系の出版社で翻訳と編集に携わる。『赤毛のアン』の翻訳を手がけ、1952年に出版。その後も多数の英米文学作品の翻訳等に携わるとともに、女性や子ども、教育などに関する社会問題の解決にも尽力した。政府の各種委員も歴任。1960年藍綬褒章、1965年勲四等宝冠章を受章。

英和での学びと出会いから『赤毛のアン』へ

10歳で飛び込んだ寄宿舎生活

女学校時代の村岡花子(右手前)

村岡花子は、カナダの作家 L.M.モンゴメリの長編小説『赤毛のアン』を、日本に初めて紹介した著名な翻訳家であり、児童文学者です。『赤毛のアン』は、やせっぽちで赤毛でそばかすだらけの孤児アン・シャーリーが、マシューとマリラ兄妹に引き取られ、学校の友だちや周りの大人たちと関わりながら、想像力豊かに思いやりある女性へと成長していく姿を描いた物語で、今も広く読み継がれている作品です。


近年、花子の名が再び脚光を浴びたのは、その半生をモデルにしたテレビドラマ『花子とアン』(2014年前期放送、NHK「連続テレビ小説」第90作)でした。小説の主人公であるアンの境遇を花子の姿に重ねながら、花子とその周辺の人々が明治から大正、昭和への時代を生き抜いていく姿が、広く共感を呼びました。
このドラマの原案となったのは、花子の孫で、当学院の卒業生である村岡恵理が著した『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』です。


村岡花子(旧姓:安中〈あんなか〉)は、山梨県甲府市の茶葉商家の8人きょうだいの長女として生まれました。熱心なクリスチャンだった父は、長女・花子の文学的な資質と豊かな感受性に気づき、高等教育を受けさせたいと切望しました。そして、縁あって東洋英和への編入学が許されたのです。


創立20周年を迎えようとしていた東洋英和女学校に、花子は給費生として入学。10歳で寄宿舎での生活を始めました。それから女学校での10年間、花子はカナダの婦人宣教師たちから、厳しい英語教育を受けました。当時の生徒の多くは政府高官の令嬢などであり、編入当初の花子は、すでに英語を学んでいた同級生に大きく遅れをとっていたのです。


学費が免除される給費生は、学業の成績が思わしくなければ退校処分です。花子は寝る間も惜しんで熱心に勉学に打ち込み、15、6歳の頃には学校の書籍室(図書室)の書架にあった英米文学の古典の書籍を原書で読みこなすほどの語学力を身につけていたといいます。


また、花子が東洋英和女学校で得たのは確かな英語力だけでなく、かけがえのない師や友でした。そのひとりがドラマにも登場した後の歌人・柳原白蓮こと柳原燁子。この年上の同級生からは、著名な歌人であった佐佐木信綱を紹介され、その門下に入った花子は和歌や日本の古典文学の知識をも深めていきます。


さらに、同じく佐佐木信綱の門下だった片山廣子との出会いは、卒業後の道すじに大きく関わるものとなりました。廣子は東洋英和女学校の先輩であり、歌人で、「松村みね子」のペンネームでアイルランド文学の翻訳者としても知られています。花子はこれらの人々との貴重な交流を経て、文筆家として自立していくことになります。

日本の少女たちのために翻訳した『赤毛のアン』を出版

『赤毛のアン』の初版本と翻訳原稿

東洋英和女学校高等科を卒業した花子は、山梨英和女学校に赴任し、英語教師として教鞭をとりました。教え子たちとの触れ合いの中で、若い人たちの心の糧となる本の必要性を強く感じるようになります。1919年に教員を退職、出版社・日本基督教興文協会(現在の教文館)で働き、女性や子どもたちのための雑誌や書籍の編集や翻訳に携わります。

仕事を通じて出会った、聖書やキリスト教の書物を印刷する会社を営む村岡儆三と結婚、翌年長男を授かりますが、その最愛の息子を6歳で亡くします。関東大震災で夫の会社が倒産後、震災の痛手をようやく乗り越えた矢先のことでした。悲しみを乗り越え、花子は若い人たちのために童話の創作や英米の家庭文学の翻訳に積極的に取り組んでいきました。


『Anne of Green Gables』との出会いは、第二次世界大戦が勃発する少し前。戦時色の濃くなった日本からカナダへ帰らなければならなくなった出版社の同僚ミス・L.L.ショーから、友情の記念として贈られました。この作品との出会いに運命的なものを感じた花子は、日本の少女たちに読ませたいと考え、第二次世界大戦の渦中に翻訳作業を進めます。


そして、終戦から7年を経た1952年、『Anne of Green Gables』は、邦題『赤毛のアン』としてようやく出版されました。その後、花子は『アンの青春』『アンの愛情』『アンの幸福』など続編を翻訳し、「アン・シリーズ」全10冊を完成、そのほかモンゴメリの6作品を翻訳出版しています。

学院に寄贈された花子の貴重な蔵書

村岡花子文庫展示コーナー

花子の活躍は、著作や翻訳だけでなく、1932年から1941年までNHKの
子ども向けラジオ番組『コドモの新聞』を担当し、その名が全国的に知られるようになりました。また、女性や子どもたちに関わる社会活動にも貢献し、戦後は日本ユネスコ協会連盟副会長、日本放送協会理事、文部省関連の審議会委員などの役職にも就きました。
1955年にヘレン・ケラー女史が来日した際には、教会での講演時に通訳を務めました。


東洋英和女学院関係では、同窓会の役員や学院の理事を務め、短期大学で教鞭を執るなど、75歳で天に召されるまで、花子は母校とのつながりを大切にしました。


晩年の花子の書斎は、東京大森の自宅に「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」として保存・公開されてきましたが、閉館後の2015年に、村岡美枝・村岡恵理姉妹により、花子の遺した著作や約2,000冊もの蔵書、原稿、家具などが学院に寄贈されました。現在は、「村岡花子文庫」として学院の貴重なコレクションとなっています。


このコレクションには、宗教書や英文学関連の書籍、経済学、哲学、社会人類学、自然科学ダーウィンなどの書籍、女性問題や子どもに関する本、教育分野の書籍も多く含まれており、その目録からも花子がいかに書物を愛し、書物から広く深く学びを追及していたことがわかります。


こうして、女性が高等教育を受けて第一線で活躍することの難しかった時代、東洋英和で教育を受けて、苦難の時代を乗り越えて生きた村岡花子のスピリットは、今も受け継がれ、母校とともに生き続けています。

※記事中の所属・役職等は各記事掲載当時のものです。

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