東洋英和女学院卒業部⾨
掲載日:
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職種
クリエイティブ・芸術系 中学部 中高部 芸能・マスメディア系 高等部阿川 佐和子
東洋英和女学院中学部に入学。高等部卒業後、慶應義塾大学文学部に進学。1976年同西洋史学科を卒業。大学卒業後は織物職人を目指したが、慶應義塾大学幼稚舎の図書館でのアルバイトなどを経験した後、1983年よりテレビのニュース番組「情報デスクToday」のアシスタントキャスターを務める。1992年に米国ワシントンD.C.へ渡り、1年間暮らす。帰国後は『報道特集』のキャスターとなる。1993年より、『週刊文春』で「阿川佐和子のこの人に会いたい」の連載を開始。現在はテレビ朝日「ビートたけしのTVタックル」「日曜マイチョイス」、BS12トゥエルビ「鶴瓶ちゃんとサワコちゃん」にレギュラー出演中。女優としてもテレビドラマや映画に出演するなど、幅広く活躍。著書は『聞く力―心をひらく35のヒント』(文春新書、2012年)他多数。近著に『年とる力』(文春新書、2026年)
電車の中で自分が席に座れたら、皆の荷物を持つのが英和生
人生は思い描いたとおりにはいかない
2018年 東洋英和楓の会主催 「阿川佐和子氏 講演会」にて。
私が英和の高等部を卒業したのは、半世紀以上も前のこと。「英和でこういうことを学んで社会に出ました!」と言えるような立派なものはないし、そもそも私は、学校を卒業して社会に出るつもりなどさらさらなくて、普通にお嫁に行くと思っていました。
社会に出て自分の能力を試そうとか、自分のやりたいことをしようとか、自分の能力を社会に還元していくとか、そういったことは何も考えていませんでした。
特に、我が家は父が古い考えの人でしたから、女が社会に出るためには、よほど特別な能力がなければ不可能だろうと思っていました。私は決して勤勉ではなかったけれど小心者でしたから、そこそこの成績はとっていました。でも、何か特化して「これが好き」だとか、「これが私の能力だと思う」と胸を張れるような、得意なもの、好きなものもなかったんです。
ですから、おおらかな心の持ち主から経済的な援助を受けながら、家庭を守って、その夫のことを支える主婦になるというのが、自分に見合った人生の幸せだろうと信じて、ほとんど疑わずにいました。
ただ、うちの母のように、亭主のために滅私奉公するだけの人生というのはつらいだろうと思ったので、自分の楽しみの世界から内職程度の収入につながるような、小さな自立ができればいいかなと考えていたんです。
この話をすると驚かれるのですが、私は小さい頃から手先の仕事が好きだったので、編み物とか織物などで自分なりの小さな世界を作りたいと思っていました。「それなら美大に進めばよかったのに」と母にも言われたのですが、そこまでの勇気もなくて。
皆が受験するというときになって、同じ波に乗り、特定の目標はないまま、大学生になりたいと思って受験しました。「せっかくなら大学は男女共学で、男の子がいるところがいいかな」というくらいの気持ちで大学に行きましたから、誇れる話もないのですが──ただ、やはり人生というのは、自分が思ったとおりに進んでいくものではないし、思ったとおりにいかないから失敗だったというものでもないですよね。
今思えば、大学を卒業してからは「結婚するという目的だけなのに、なぜこんなに皆から遅れをとっているんだ」と悩んでいました。皆が結婚や就職でしっかりした居場所を決めていき、「アガワも早くこっちにいらっしゃいよ」と言われるのに、お見合いを何度も繰り返してもうまくいかなくて。「私にとって何が幸せなのだろう。私には何が欠けているんだろう。何がやりたいの? 何もない──」というモラトリアムが長く続いて、そんな暗い20代を過ごしました。
そんな20代の終わり頃、父と一緒に雑誌に載った写真がたまたまテレビ局の人の目に留まって──それを七光りと言われれば、おっしゃるとおりなのですが──1回だけのつもりでテレビに出ることになったんです。自分でもプロの意識はなく、「これは仮の姿で、いずれは結婚して専業主婦になるんだ」と思っていました。
人生のやり直しに、遅すぎることなどない
生徒たちとの対話も弾み、楽しいひとときとなりました。
「情報デスクToday」と「NEWS23」という報道番組で、キャスターを計8年続けましたが、報道は向いていないと気づいて、40歳手前で辞めました。ナレーションやアナウンスのような職人的な作業はおもしろかったのですが、世の中で起こった事件やニュースなどを分析したり伝えたりするという報道の仕事は、ろくに理解していないのにわかったふりをしてコメントしているという後ろめたさを感じながらやっていたんです。
その後、何のあてもなくアメリカに渡り、ワシントンで1年間暮らしました。
向こうで会った人に職業を聞かれて、仕方なく「ニュースキャスター」と答えたら、「ニュースキャスターなの!?」と驚かれたので、
「Next is commercialしか喋ってませんでしたから」と答えたりしていました。
「自分が何になったらいいかわからなくて、それを考えるために来ました。もうこんな歳ですけど」と言ったら、「そういうことを考えるのは、何歳だって関係ない! 気がついたときがJust timing!」という言葉が返ってきたんです。日本だったら、「40歳近くになってからキャリアを全部捨ててやり直すなんてあり得ない、無謀だ!」とか言われるのに、全然違ったんです。
アメリカで暮らしてみて、具体的な何かが見つかったわけではないのだけれど、1年過ごしたとき、『週刊文春』の編集長から「日本に帰ってきてインタビューの仕事をしてみませんか」と誘われて、その仕事を引き受けました。インタビューは全く得意ではなく、褒められたこともなかったんですけれどね。書く仕事もそうです。得意でも好きでもない。「将来はものを書く人間になろう」なんて思ったこともないし、父と同じ世界には行きたくないし、能力もないし、英和時代にも作文を褒められたことはありませんでした。書くのも読むのもむしろ嫌いだったのにね。でも、好きじゃないから、必死になれるのかもしれません。怒られるのがいやなので、必死になって続けていたら、30年以上過ぎてしまいました。
英和生のいたずらとお転婆は伝統
中学部時代。今も変わらない笑顔。
英和で得たこと──やっぱり「笑い」ですよね。あの頃は、毎日毎日、全力で笑うことを探していたような気がします。英和生ってね、いたずらにも徹底的に凝るでしょう?
あるときは、修業式の前日に電話連絡網がまわってきて、ご丁寧に「いつもと違う連絡網なので、アガワは次の人にはまわさなくていいからね」という断りのあと、「名簿の1番から5番までは、お手洗いの掃除に決まったから。持ち物はね、タワシ、長靴、エプロン、三角巾、雑巾……」とか言われたのです。で、一生懸命用意して、次の日はすごい荷物を持って登校しました。
修業式が終わって、私は疑いもせずにエプロンと三角巾を着けて、教室のある階のお手洗いに向かいました。そして、「あとの4人は、どうして来ないんだろう」と思いながら、ひとりでせっせと掃除していたら、外から仲間たちが「わーい、引っかかった、引っかかった!」と笑っているんです。そこで「だまされた!」と気づくわけですが、そういうことも陰湿ないじめとかではなくて、常に温かな笑いに包まれた時間でした。
いたずらの話は、うんと年配の卒業生からもよく聞きますよね。「セーラー服で階段の手すりを滑り下りて叱られた」とか。そういうことに命をかける伝統って何なのでしょう。英和生は、女っぽくないというか、子どもっぽいというか、本当に無邪気ですよね。年月が過ぎて、先生も生徒も入れ替わっていくのに、やっていることは同じだという不思議さ、それを楽しいと思える精神が「東洋英和だな」と思います。
困っている人がいたら、その荷物を持つという教え
英和の中高生時代ではっきり覚えていることがあります。毎朝の礼拝で先生が短い話をなさるのですが、いろいろなお話の中で、ある先生が「英和の卒業生というのは、どなたかの縁の下の力持ちになるように生きていくのです」というような意味のことを話されたのです。私は「ああ、なるほど、そうか」と思いました。
英和の卒業生って、あまり上昇志向が強くない人が多いかもしれません。社会に出てからも、「これは私がやりたいです!」と手をあげる人がいたら、「どうぞ、どうぞ」と譲ってしまうんです。せっかくやりたい人がいるんだから、相手に憎まれてまで「この仕事を取ってやる」なんていう根性はなくて、世の中の何の役にも立たない、おもしろいことを探して、笑って幸せに寝ることがいちばんいいと思っているようなところがあるんですよね。
それでも、やはり厳しいこと、怖い存在があるということ、やってはいけない決まりがあることは必要だと思っています。英和の先生がたからは、行儀や服装などに関しては、とても厳しく注意されました。
先生がたは怖かったけれど、愛がありました。厳しいことをおっしゃりながらも、生徒が本当に困ったときには、ちゃんと見ていてくださるし、生徒たちも、誰かが困っていたら、寄ってたかって心配するという癖がある。卒業してかなり経ってからでも、誰かが弱っていることを知ると、損得などは全く考えず、本気で何とかしようとするんです。
英和生時代、「通学の都電の中で、立っている人が荷物を持っていたら、座っている人が持つ」というのが当たり前のルールでした。
先生がたからも「電車の中で空いている席があっても、座ってはいけません」ではなく、「座ったら、ほかの人の荷物を持ちなさい」と教えられたように記憶しています。だから、座っている子は、もう前が見えないくらい、何人分ものカバンを膝の上に抱えていましたっけ。
今思えば、「見ず知らずの人でも、困っていたらその荷物を持ちましょう」という教えに、実は全てが詰まっているのではないかと思います。その「荷物」は、人生において様々な困難である訳で、自分に少しでも余裕があったら人に優しくできるといいなぁという気持ちは、ここから始まっているのかもしれません。(2022年、談)
※記事中の所属・役職等は各記事掲載当時のものです。