Topics

学院史料展示−村岡花子と東洋英和−

 学院史料展示コーナー(本部・大学院棟1階ロビー)にて「村岡花子と東洋英和」を展示中です。2008年は『赤毛のアン』出版100周年でしたので、今回『赤毛のアン』の翻訳者である村岡花子(1913年東洋英和女学校高等科卒業)と母校である東洋英和とのつながりに焦点を当て、展示を行っています。
 学院が所蔵する村岡花子の翻訳本・絵本・随筆などの紹介にはじまり、学院での生活をしのばせる史料や写真、村岡家よりお借りした『赤毛のアン』の翻訳原稿、片山廣子からの書簡などが展示されています。

 六本木校地の近くにお越しの際には是非お立ち寄りください。
村岡花子。1903(明治36)年から1913(大正2)年の間、東洋英和女学校で学んでいました
 
村岡花子の翻訳本、著作、随筆など。幅広い活躍ぶりがうかがえます。美しい装丁もみどころです
     
 
女学校在学中はどんな様子だったのでしょうか。当時の文学会のプログラムや卒業写真の他、ブラックモア校長から花子に贈られた“THROUGH A LOOKING GLASS”(『鏡の国のアリス』村岡家所蔵、サイン入り)も展示されています
     
 
『赤毛のアン』の世界と東洋英和女学校での生活にはたくさんの共通点があります。実際にパフスリーブの服を着たカナダ人宣教師の先生方を目の当たりにして生活していた花子だからこそ『赤毛のアン』の素晴らしい翻訳が可能でした
     
 
『赤毛のアン』自筆翻訳原稿(村岡家所蔵。初版本は現在複製を展示中)。戦時中、防空壕の中にまで持ち込み避難させ、花子が守りぬいた原稿です。たくさんの推敲箇所が見られ、花子の使命感が強く感じられます
     
 
同窓生としても花子は母校東洋英和のために奉仕を続けました。『東洋英和女学校五十年史』の編纂委員でもあった村岡花子の「編集後記」と東光会報に掲載された「自画像」の自筆原稿。第3代の同窓会長塩原千代とは先輩・後輩の仲でもあり、生涯にわたって親交がありました。
     
  柳原白蓮と片山廣子からの書簡(村岡家所蔵。白蓮からの手紙は現在複製を展示中)。三者とも東洋英和の卒業生であり佐佐木信綱門下生でした。白蓮からの手紙は、白蓮が伊藤伝右衛門のもとから出奔し、花子との友情を再び取り戻した時のもの。片山廣子からは仕事に関しての話題が語られています
     
 
村岡花子の随筆「生きるということ」「をみななれば」、花子のお孫さんである村岡恵理さん(1986年高等部卒業)による村岡花子の評伝『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を紹介しています(購入も可能です)
 
 
《村岡花子と東洋英和展  知ってる? ○×クイズ》

下記のクイズは、展示をよーく見た方でないと、たぶん全問正解はむずかしいですよ!
さあ、挑戦してみてください。

1. 村岡花子が英和に通っていたころ、
  @安中[あんなか]はな(村岡花子)は、家から人力車に乗って通学していた。
  A制服のスカーフがうまく結べなかった。
  B将来は作家になりたいと思っていた。
  C書籍室(図書室)にある英語の本をほとんど全部読んでしまった。
  Dまじめで品行方正だったので、先生に叱られたことは一回もない。
  E英語の成績が優秀だったので、文学会でテニスンの詩を暗誦した。
  F英和の生徒のときにお友達になった柳原Y子(柳原白蓮)さんと生涯にわたって深いお付き合いをした。
  G上級生の片山廣子にあこがれていた。
  H書籍室(図書室)で“Anne of Green Gables”を読み、おもしろかったので、いつか自分が訳して出版したいと夢みた。
   
2. 卒業してから
  @すぐ結婚して家庭に入り、しばらくは主婦一筋だった。
  A静岡英和女学校の先生をしたことがある。
  B長く東光会(同窓会)会長をつとめた。
  C翻訳だけで、創作活動はしなかった。
  D村岡花子の印税の一部が、今も毎年 東洋英和に寄付されている。
  E「東洋英和女学院百年史」の編纂の中心的役割を果たした。
   
 
答えは展示コーナーにあります