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2009年度卒業式が学院各部で行われました

2010 sotugyou 1.JPG春を間近にしたこの季節、今年も学院では卒業生を送る季節がやってまいりました。今年度は学院創立125周年を迎え今一度建学の精神に立ち返り、いかに「敬神奉仕」の心を学校教育において育み社会の中で活かしていくのか、今後の学院の歩みを考える機会をもちました。卒業される方々、そしてその方々を支え育ててくださったご家族の皆様に心よりお祝い申し上げます。これから後の人生も豊かに歩みを進めていかれることをお祈り申し上げます。

 

 

 

 


                        2009度高等部卒業証書授与式   (写真:中高部写真部撮影)

 


卒業証書授与

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卒業生による答辞

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ロッシーニ「信仰 希望 愛」の合唱

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2009年度をもって佐藤順子高等部部長が退職するにあたり、各部卒業式の中から佐藤先生の式辞をご紹介いたします。長年にわたる学院へのご奉職、誠にありがとうございました 。
 
 

第124回 卒業証書授与式   佐藤順子 高等部部長 式辞全文

 2009年度 東洋英和女学院 高等部卒業式式辞 

高等部部長  佐藤順子
2010319日(金)
                          新マーガレット・クレイグ記念講堂にて
 
 
聖書:コリントの信徒への手紙 一 1231節~137節    
うららかな春のあした、ここに、ご来賓の皆様、保護者の皆様のご臨席のもと、東洋英和女学院第124回卒業証書授与式を執り行うことができますことを、心よりうれしく思います。ご来賓の皆様にはご多忙にも関わらずご列席賜り、お祝いを共にしてくださいますことを御礼申しあげます。また、保護者の皆様には、お嬢様のご卒業を心よりお慶び申し上げます。感慨とお喜びは如何ばかりかとお察し申し上げます。またこれまでに頂戴いたしました学院へのご理解、ご支援に対しまして深く御礼申し上げます。
今お名前が呼ばれた卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。中学部入学式で初めて皆さんに出会い、追分での中1オリエンテーションや野尻での中2夏期学校、高等部では広島・長崎への高二修学旅行や天城での高三修養会などにご一緒して、身近に皆さんと接し、お話をし、共に学ばせて頂いたことを懐かしく思い出しています。皆さんは中学部入学式から高等部の卒業式までの節目節目に式辞を述べさせていただいた、私にとって唯一の学年ということで特に親しみを感じる思い出深い皆さんです。
礼拝から始まり終礼の祈りで終わる毎日の学校生活、学校行事の数々、生徒会活動やクラブ・YWCA活動、ピアノや英会話などの課外教室等、有意義なかけがえのない6年間であったことでしょう。友達や仲間、先生方との交わりや信頼関係、勉強や課題への取り組み等で、大いに充実感や達成感・喜びを味わった時もあれば、後悔や自己嫌悪、苦しみ・悲しみ・失望を味わった時もあったに違いありません。それら一つ一つが今のあなた方と将来のあなた方を作り上げる貴重な体験だったのだと思います。卒業を前にした今の皆さんの心の思いを完全に知ることはできませんが、きっとご両親やおうちの方々へ、先生方や友達、先輩・後輩、用務員さんや警備員さんに至るまで、東洋英和にかかわるすべての方々への「今日までありがとう」と言う感謝の気持ちに違いないと思います。高三修養会の文集や生徒会の「楓」に書かれた皆さんの感想を読んでもそれがよく分かりました。皆さんがそのように感謝できるということを私もうれしく思い神様に感謝しています。
 
さて高等部を巣立ち、もっと自由で広い世界に飛び立とうしている皆さんは、これからどのような人生を送りたいと願っているでしょうか。もちろん皆幸せな人生を望んでいるに違いありません。皆さんの内の何人かの方々とお話をした時に、全員がそれぞれに「私はこの大学でこれを学びたい。私はこうなりたい、このような職業に就きたい。それは『誰かの役に立ちたいから』『何かの役に立つ人生を歩きたいから』」と話してくださったのです。東洋英和の建学の精神である「敬神奉仕」について幾度となく教えられて来たことが、皆さんの心に響いていたのだとうれしくなりました。「人は何かに、誰かに、必要とされることを必要とする」という言葉を読んだことがあります。「必要とする」ということは、必要とされなければ生きてはいけない。それがなくなれば死んだも同然だ、何かに、誰かに必要とされることで、私たち人間は生きていられるということだと思います。人の役に立つことが「生きがい」につながるということでしょう。中1の時にご一緒に学んだマザーテレサの言葉の中にも、「自分が必要ない存在だと感じることは、人にとって一番重い病なのです」というものがありました。重い病は死をもたらすこともあるのです。私たち人間には生きていく上で必要な物はたくさんあります。あったらよい物も数え切れないほどあります。有形無形の様々なものです。その中でも私たちが必要とされて存在していると感じること、自分の人生に意味があると感じること、人の役に立つ自分であると感じられること、それが生きる上で最も必要なこと、真の「生きがい」と言ってもいいのではないでしょうか。
 
しかし私たちが何かに、誰かに必要とされるためにはそれなりのことができなければならない、誰かの役に立つことは、誰にでもできることではないと考えるかもしれません。特別な勉強をして特殊な技術を身につけて、そして必要とされる、そして役に立つと考えて、私には無理、私にはそんな能力も技術もないと落ち込む時もあるかもしれません。
バンクーバーオリンピックが終わって一ヵ月経とうとしていますが、男子フィギュアスケートで日本初のメダル(銅メダル)を獲得した高橋大輔選手のフリーの演技は見事なものでした。1950年代のイタリア映画の名作「道」のテーマ音楽に乗って情感豊かな表現力で観る人に感銘を与えました。高橋選手がどのような考えや思いであの音楽を用いたのか分かりませんが、あの映画から高橋選手自身も勇気と希望を与えられたからではないかと思うのです。私の昔の記憶を確かめようとDVDを買って見て、感動を新たにしました。貧しい家に生まれ育った少し知能の足りない娘ジェルソミーナはザンパノという怪力大道芸人に売り渡されました。ザンパノの芸を引き立てるために太鼓を叩いたり、寸劇をしながら一緒に旅をします。まるで夫婦気取りのザンパノですが、スープさえも作れず美しくもないちょっと変わったジェルソミーナに辛く当たり優しい言葉の一つもありません。粗暴な振る舞いや乱暴な言葉にジェルソミーナはザンパノと一緒にいる意味を感じられず、また美しくも賢くもなく料理もできない自分自身の存在そのものに失望してしまいます。こんな私が生きていて何かの役に立つのだろうか。そのような時に出会った綱渡り芸人の男の言葉が彼女に勇気をあたえたのです。綱渡り芸人はジェルソミーナの存在はきっとザンパノにとって意味があるのだと言うのです。彼は道に落ちている小石を拾い上げ、「何かの本で読んだけれど、どんなものでも何かの役に立つんだ。たとえばこの小石だって役に立つ。私には分からないけれど、どのように役に立つのかは神様だけが知っている。無用のものがあるはずがない。」と言いました。そして「何もできないブスなジェルソミーナだけれど、ザンパノと一緒にいることがザンパノの役に立っているのだよ。」と言うのです。「一緒にいることが役に立っていること。」 これを聞いたジェルソミーナはその小石を手に取ってじっと見つめ、にっこり微笑み大きくうなずいて、「わかった。彼と一緒にいよう。」との決意を表したのです。そして再び自分で選びとった自分の道を歩き始めるのでした。人は「誰かの役に立っている、立った」と感じられる時、人生に生きるだけの値打を感じる、すなわち「生きがい」を感じるのです。ジェルソミーナも生きがいを感じて歩きだしたに違いありません。映画の続きはお話ししないことにします。
「一緒にいることが役に立っていること。」こう綱渡り芸人は言いました。この言葉は真理を伝えていると思います。人の役に立つ、何かの役に立つというと、何かをすることを考えてしまいます。ある行動や行為、ある職についてその仕事をするという行為、それが何かの役に立つことだと考えてしまいます。特別なこと、称賛されること、目立つことをすることが役に立ったことだと勘違いすることもあります。何か役に立つことはないかと動き回って探そうとするかも知れません。しかしこの綱渡り芸人は、何も特別なことをしなくても、何も出来なくてもザンパノと一緒にいること、彼と寄り添って生きること、ジェルソミーナの存在そのもの、それが役に立つということだと教えていてくれます。すなわち神谷美恵子氏がその著書の中で述べているように、「存在は行動に先行する。人間はどういう心で生きているか、そのあり方のほうが行動よりもっと大切なのだ。」ということを彼は伝えたかったのだと思います。
それでは行動に先行する「存在の在り方」とはどのようなものでしょうか。「どういう心」を持った存在なのでしょうか。私はこう思います。神様によって造られ、愛され、生かされている自分の生をまず感謝して喜んで受け止める心、絶対者である神様の前にあって謙虚な心、感受性豊かな心、小さなもの、些細なことを大事にする心、他者を尊重し愛する心、一言で表現するなら「愛の心」、このような心の在り方からおのずと何かの、誰かの役に立つ行動が生まれ出てくるのだと思います。たとえ行動がなくても、その心を持って生きる人からは、優しさと暖かさと公平さと不思議な力がにじみ出て、周囲によい感化を与えるのです。先ほど高橋先生に読んでいただいた聖書の言葉は「愛の讃歌」の一部です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐える。」 このような「愛の心」で生きているなら、あなたを必要とする、あなたに呼びかけるかすかな声を聞き分けることができるに違いありません。そしてその声に応じてあなたらしい方法での愛に満ちた行動が生まれることでしょう。「存在は行動に先行する」とはこのようなことだと思います。
ある人はこの聖書の言葉の「愛」というところに「私」を入れて読みなさいとおっしゃいました。「『私』は忍耐強い。情けぶかい。『私』は自慢せず、高ぶらない。」と続きます。しかし現実はそれとは反対の自分であることに気付きます。その通りでありたい、そうなりたいと誰でも強く思いますし、そうであれば素晴らしいと知っています。私は、ここの「愛」に入れるべき言葉は、「イエス・キリスト」だと教えられて来ました。「『イエス・キリスト』は忍耐強い。情け深い。自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」 イエス・キリストはこのような愛を十字架という形に表して示してくださったのです。どんなに愛の心で生きていたいと願ってもそれができない弱さを持つ私たちを、自らの命を捨ててまでして愛してくださったイエス・キリストの愛があれば、その愛を心にしっかりと受け止めるならば、私たちの心は「愛の心」に変えられていくのではないでしょうか。皆さんの東洋英和での6年間あるいは12年間、14年間の生活で、皆さんの心に満たされてきたもの、それは「イエス・キリストによってあらわされた神様の愛」にほかなりません。この神様の愛が、いつでも、どのような時でも、どこにいても、あなたに向けられていることを教えられて来たのです。どうぞそれを信じて、神様の愛、イエス・キリストの愛を心に満たして、あなたの存在そのものが「愛」となってください。あなたの存在が周囲に明るさ・暖かさ・優しさ・正義・平和などをもたらすものでありますようにと祈ります。この愛の心を持って生き、あなたに何らかの行動を求める呼びかけのかすかな声を聞き逃すことがありませんようにと祈ります。あなたの存在を必要とする声があなたに向けて発せられていることを覚えていてください。
皆さんのこれからの歩みが神様に守られ、祝福されたものとなりますようにとお祈りして、私の式辞とさせていただきます。
 

2009年度学院各部卒業式日程と卒業者数
3月11日(木)
東洋英和幼稚園
 
46名卒業
3月17日(水)
小学部
 
79名卒業
3月17日(水)
中学部
 
190名卒業
3月18日(木)
大学
人間科学部人間科学科 
184名卒業
人間科学部人間福祉学科
124名卒業
国際社会学部国際社会学科
192名卒業
3月19日(金)
かえで幼稚園
 
45名卒業
3月19日(金)
高等部
 
190名卒業
3月20日(土)
大学院
人間科学研究科修士課程
18名修了
 
 
国際協力研究科修士課程
8名修了
 
 
人間科学研究科博士後期課程
(学位授与 
 今年度は0名)