学院概要

教育理念

婦人宣教師たちとそれに連なる多くの人々が示した「敬神奉仕」の精神が、時代を超えて受け継がれています。

一貫したキリスト教女子教育で、さまざまな分野で活躍する多くの女性たちを送り出しています。
院長 深町正信

東洋英和女学院の歴史は1884(明治17)年を起点としています。それ以来、今日まで132年間にわたり、一貫してキリスト教女子教育が行われてきました。隣接地に発足した東洋英和学校(男子校)は1899年に廃校となり、キリスト教教育から離れて、「麻布学園」として、現在に至っています。
 東洋英和女学校の経営は1881年に正式に組織された「カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社」により行われました。しかも同伝道会社の設立のそもそもの目的は日本の伝道にあり、また、日本におけるキリスト教女子教育に強い関心を持っていました。したがって、カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社が日本に派遣した最初の婦人宣教師はマーサJ . カートメル(1845−1945)でありました。
 彼女は1882年に来日し、築地居留地四、五番に居住し、まず日本語を習得し、また聖書を教え伝えました。1883年、カナダ・メソジスト・ミッションの宣教師として来日していた宣教師のカックラン博士と医療宣教師マクドナルド博士は麻布に男子学校のために土地の購入を決定し、その土地の一部を婦人伝道会社の学校経営のために譲ることをカートメルに助言しました。
 カートメルはこの助言に従い麻布に日本の女子学校を設立することを決意しました。その学校が現在の東洋英和女学院の源である「東洋英和女学校」でありました。1884 年9月22日付で、「東京府」に提出された学校の「設置願い」によれば出願は東洋英和学校会社社長の小林光泰(1858−1899)の名義になっています。その当時、外国人名義での出願が出来なかったので、男女、両東洋英和学校のための会社を創設し、その会社の社長の名前で出願するという方法がとられました。
 この小林光泰は信州諏訪藩の出身で、1879年12月30日に、宣教師のイービーからキリスト教の洗礼を受け、日本メソジスト教会の初代牧師の一人であり、2度にわたり、現在の鳥居坂教会の牧師でもありました。その設置願いによれば、校長と教員4名、生徒2名とありますが、定員は50名でありました。その後、幾多の試練を受けましたが、漸次、生徒数が増加し、1886 年には定員250 名に変更せざるを得ない程に成長をとげました。
 その当時の男尊女卑の日本社会にあって、東洋英和女学校のキリスト教による人間形成、欧米の新しい文化、文明、学問を学べる学校として、進歩的指導的階層に属する人々から子女の教育を高く評価されて、その当時としても高額な授業料にもかかわらず、向学心のある女性たち、進歩的な人々の子女が入学を強く希望し、大いに人気がありました。
 その結果、東洋英和女学院は今日まで、132年間にわたり、日本の女性の地位を向上させ、さまざまな分野で活躍する女性たちを数多く社会に送り出してきました。