今年も大学は4月に新入生を迎えた。タイミング良く桜の季節の中で始まった新入生オリエンテーションが終わり、今は新緑のキャンパスで新1年生たちの明るく賑やかな声が聞こえ、嬉しい。お昼休み時間に行われるチャペルでの礼拝で、聖書や讃美歌の該当ページを開くのに手間取っている姿も初々しくていい。
4月2日の入学式は、コロナ禍前に倣い、六本木校地の新マーガレット・クレイグ記念講堂で開催した。新入生に学院発祥の地でその伝統に触れ、建学の精神「敬神奉仕」を胸に刻んで4年間を過ごして欲しいとの思いから、敢えて横浜キャンパスではなく六本木の地を選んだのだが、多くの保護者や来賓をお迎えして、キリスト教の儀式の中で厳かに式を挙行できた。感謝に堪えない。
さて、今年の入学式での式辞で、私は2つのことを新入生にお願いした。1つは、時間を友人とし(Time is your friend.)大切にすること、もう一つは、在学中の4年間にできるだけ多くの経験をして、その経験を自分の引き出しの中でいっぱいにして欲しいということの2点を述べた。貴重な本学での4年間の大学生活を有意義に過ごして欲しいとの願いを込めたのだが、教職員やこれからできるであろう生涯の友やゼミ同級生とたくさん話をし、また32万冊ある本学図書館の蔵書から、たくさんの本をピックアップして読んで、思索の旅をして欲しいと思う。
何気なく過ごす今日という日は瞬く間に昨日になる。時間が過ぎるのは早く、昨日何があったかも直ぐに忘れてしまうほどの気ぜわしい毎日の連続の中にあって、学生には、読むことに加え、書くことを習慣化することをぜひ勧めたい。在学中に書かなければならないレポートや論文が待っているが、それとは別に、よそ行きではない自分の心の中の本音を文字にして書くのを習慣にして欲しいと思う。ペンや鉛筆を使うのではなく、PCに向かって打つのでもいい。今日何を食べたか、友達と何を話したか、授業のどの部分が楽しかったか、つまらなかったか、どんなことに笑い、怒ったか、といったことをありのまま、思いのままに、自分のために書く(この、自分のために、が大切な部分)。毎日でなくても数日分まとめて書いてもいい、スキップしてもいい、短くても支離滅裂でもいい。自分のための備忘として書くのだから、スタイルや書き方を気にする必要もない。書くことが習慣化すると、摩訶不思議、人と話すことが苦手な自分に少しずつ変化が現れ、何気ない毎日が、徐々に素敵に、煌(きら)めいているように感じる。なぜなら、書くことは、もう一人の自分と対話をすることだから。自分の言葉で自分との語りを通して、自分と仲良くなる。自分と友達になれれば、周りの人とも仲良くなれるし、仲良くなりたくなる。私が備忘録と称しても、その日にあったことを書き留めることからスタートして、数十年も書き続けているのも、そのことをまさに体感したからである。書くことは、自分を好きになり、一度きりの人生を素敵に生きているんだ、というのを現在進行形で実感できる有効な方法の一つだと思う(私自身が素敵であるかどうかは別次元の話です)。
ところで、今の若者は義務教育の課程で、一通り文章の書き方なるものを習っていると思っていたが、最近読んだwebの記事で、若者はSNSメッセージ等で句読点をつけない、句読点のある文章に好い印象を持たない、というのを見て驚いた。そこには、句読点がある「文書」を目にすると、自分の責任を追及されているようで、詰問に近いニュアンスを若者は感じるようで、落ち着かなくなるらしい、と書かれている。私など、当然あるはずの句読点がない文章を目にすると、意味の取り方に困って逆に落ち着かないのだけれど。この記事は本当なのかと訝って、過去にゼミ生から届いた大量のLINEメッセージを読み返してみた。何と、句読点がまったく振られていないではないか。時代が進むにつれて書き方も変わっていくのだと、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。
2024年4月