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12月5日 礼拝奨励42

「所有するということ」
聖書 エフェソの信徒への手紙 第2章10節


 先月、ここでお話したのは、聖書に登場する「レヴァイアサン」という怪物に擬せられた政治権力の成り立ちについてでした。社会契約によって市民社会は成立し、その市民社会を主権者が統治する。そのようにして政治権力が成立するというトマス・ホッブスの論理を紹介しました。本日は、ホッブスに続いて社会契約論を深めた17世紀のイギリスの思想家ジョン・ロックの主張を見ていくことにします。ロックの主張の中心には、「所有権」という考えがあります。人間は、「自分の生命・身体・財産」に関して自己決定する権利を持っているというものです。自分の肉体を使って労働して獲得したものは、自分が所有できるという説を唱えたので、労働所有権論とも呼ばれます。そのような所有権を守るために、政治権力が創り出されたのだというわけです。

 自分のものに対しては、自分が決定する権利を持つ。これは一見すると尤も至極に聞こえます。しかしよくよく考えると、このような考え方には大きな問題があるように思えるのです。現代においては、「私のもの」とは、生命、身体、財産のほかにも、名誉、信仰、労働、アイデア、才能など、あらゆる領域に拡張されています。自己決定の範囲が「私のもの」すべてであるとすれば、私は私の自由を売って、すすんで奴隷になることも出来るのでしょうか。私は、私の自己決定権を行使して、その自己決定権そのものを他人に譲ることが出来るのでしょうか。
このような奇妙はパラドックスが生まれるのは、「所有」という概念が、実在的なものではなく、どこまでも擬制(便宜的な想定)でしかないからでしょう。「所有するもの」と「所有されるもの」との区別はあくまでも観念上の区別でしかありません。「私が私の身体を所有する」というなら、その私は「私の身体の外部に存在」していることになります。結局、「私が私の生命を所有する」などの現実は、具体的には存在しないのです。そこにあるのは、「まるで私が私の生命・身体・財産等々を所有するみたいに想定しても差し支えない」といった、いわば暗黙の合意があるにすぎません。

 だいたい、もし私が私の人生を所有しているのだとすれば、そのスタートもエンドも自分で決定できるはずではありませんか。私が覚えている限り、私は私が実際に生まれた時代や場所を選ぶことはできませんでした。気が付いたら存在していたのです。同じように、気が付いたら存在しなくなっている、というのがエンドなのだろうと思います。

 このように考えますと、本日の聖句はなかなか示唆に富む文章です。以前の1955年改訳版の方がわかりやすいかもしれません。そこではこのように訳されています。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって作られたのである」と。神の作品である以上、その所有権も著作権も神に帰属するということなのです。私が私の所有権を持つのであれば、私は私の生命の自己決定権を持っていて、私には自殺する権利があることになります。女性が妊娠した場合、その女性の身体の一部である胎児は、彼女の処分権の対象となります。なぜ、キリスト教においては自殺を認めないのか。なぜ、アメリカなどで妊娠中絶の問題をめぐって保守的なキリスト教勢力が激しい抗議を繰り広げているのか。それらは詰まるところ、私の所有権者は神であって、私が私を所有しているという論理は虚構に過ぎないと信じているからにほかなりません。

 面白いことに、所有権の概念を作り上げたジョン・ロック自身も、この「神の作品」という発想から出発しています。人間は神に作られた存在ですので、生きのびる資源も神によって与えられていると考えているのです。その人間が労働によって獲得した成果を「所有権」で守ろうとしたのですね。この「所有権」は、守られなければならないことが神によって定められていると説いたわけです。つまり、神が与えて下さった人間の権利「所有権」を守るために、政治的統治が必要なのだと説いたことになります。