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11月14日 礼拝奨励41

「 レヴァイアサン 」
聖句 ヨハネの黙示録 13 章 1 節

「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさかざまの名が記されていた。」

 本日の聖句に登場する「一匹の獣」は、通常「レヴァイアサン」という名前を持つ怪物のことだとされ、ほかにも旧約聖書のヨブ記や詩篇、イザヤ書などにも言及されています。しかし、私どもには、17世紀のイギリスの政治哲学者トマス・ホッブスによって記された主権国家理論の著作のタイトルとして馴染み深いものがあります。この著作において、ホッブズがイメージした口絵は、岩波文庫版の訳書「レヴァイアサン」のカバーにもなっているので、あるいは目にした人もいるでしょう。手前に都市らしきものがあって、その背景に山があり、そしてその向こうにある海から出てきたレヴァイアサンは、巨人が剣と杖とを持ってこちらを睨んでいるのです。この巨人は王冠を被っているから、支配者だということがわかります。この支配者の体は、よく見ると無数の人間からできています。彼ら小さな人間たちは皆、支配者の顔を仰ぎ見ているので、こちらには背を向けています。

 レヴァイアサンというネーミングとそのおどろおどろしいイメージは、最近では漫画やカードゲーム、映画やネットのゲームにまで進出していますから、むしろそうした媒体で名前だけは知っているという人たちもいるでしょう。
 ホッブズの「レヴァイアサン」の記述の中では、自然状態を説明した「万人の万人に対する闘争」とか、「人が人に対して狼」であるような世界といった言葉が有名です。この自然状態とは、要するに秩序も法もない世界、つまり社会が成立する以前の状態のことです。そこでは、人間は個々バラバラに存在しているので、いわばひとつの空間に多数のビー玉ないしボールが、てんでに運動しているような状態です。ですから、互いに衝突して傷つけたり、傷つけられたり、場合によっては壊したり壊されたりします。それぞれのビー玉やボールは、当然ながら自分が傷ついたり壊されたりしないようにするのが一番大事だと思うでしょうから、そうならないために逃げたり、相手を先に傷つけたり壊したりして、自分を守ろうとします。ですから、自然状態の中では人間は仲間を作れないで、ひとりぼっちで、ほかの人間から危害を加えられないように脅えて暮らさなければなりません。自分が生き延びるためには、他人のものを奪ったり、他人を傷つけても、殺してもいいという「絶対的な自由」があるかわりに、常に他人から何をされるかわからない、何が起きるかわからないという不安と緊張の中で暮らさなければならないのです。

 他方で、人間には論理的にものごとを考えるという能力が備わっていますから、こういう戦々恐々とした世界では長く生きながらえることは出来ないのではないかと考え始めます。そこで、何とかして互いに殺しあわないで済むためのルールを作ろうとするのですが、ルールだけ作っても誰もそれを守らなければ意味がありません。ルールを守らせるための強制力が必要になってきます。
そこで考え出されたのが社会契約です。ほかの人も自分を傷つけたり、殺したりしないのなら、自分もほかの人を傷つけたり、殺したりしないという約束を「いっせーのせ!」で取り交わせばいい、というものです。もちろん、そのような約束を皆に守らせなければなりませんから、全員が自分の「何をしてもいい絶対的な自由」、特に暴力を振るう権利や武装する権利を放棄して(武装放棄)、共通の誰かに譲ることにするわけです。ここで、そのような権利を譲られる第三者が登場します。これが国家、すなわち人間を支配するレヴァイアサンという怪物に擬せられる主権国家にほかなりません。

 さて、ここまでのストーリーには、神様の出番はありません。ホッブズ以前には、「なぜ王様が権力を持っているのか」とか、「社会は何のために存在しているのか」といった問いには、「神様がそう決めたから」(王権神授説)とか、「神様の栄光をあらわすために」(目的論的世界観)などという答えが用意されていました。しかしホッブズの「レヴァイアサン」は、権力や社会は徹頭徹尾「人間が生き延びるために」「人間によって」創り出されたものだという考えに貫かれています。ですから、当時ホッブズは「神様の存在を認めない」無神論者だと激しい批判に晒されました。

 しかし果たしてそうだったのでしょうか。危険極まりない自然状態の中で、「いっせーのせ!」で皆が同時に武装を放棄するという約束を、ほかの人々が必ず守るという根拠はどこにあるのでしょうか。誰かが裏切れば、その瞬間に社会契約は破綻し、約束を守った人だけが馬鹿を見るということになります。それでも、社会契約によって市民社会は成立するとホッブズは断言します。彼は社会契約における約束を、信約(Convention)と呼んでいます。信じる約束という意味です。人間は、恐怖が支配する自然状態にあっても、究極的には他者との約束を信じるように神様によって作られている。したがって、人間は自らの意志で暴力や武装を放棄して、平和への努力を義務付けられているのだと、ホッブズはそのように主張したかったのではないかと思えるのです。

 現在、シリアやリビアなど、私どものこの世界のあちこちで、収拾困難な内戦が繰り広げられています。内戦の悲惨さは、ホッブズの言う自然状態を彷彿とさせます。内戦の収拾にはどのような論理と決断とが必要なのでしょうか。私どもはいま一度、ホッブズの主張に耳を傾ける必要に迫られているのではないでしょうか。