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6月6日 礼拝奨励38

罪なき者、まづ石を擲て

ヨハネによる福音書第81節~8


 本日の聖書の箇所は、いわゆる「罪の女」のエピソードとしてよく知られているところです。歴史上の名だたる画家たちが好んで取り上げたテーマでもあり、ブリューゲルやルーベンス、レンブラントなどの作品がすぐ目に浮かびます。話の主題は、当時、厳格にユダヤ教の律法に従って生きることを標榜するファリサイ派の律法学者たちによってイエス・キリストに仕掛けられた巧妙な罠の顛末です。ユダヤ教の律法に基づけば、石打ちによる死刑が宣告されて然るべき姦淫の罪を犯した女をどのように取り扱うべきかを問い質したのです。もし、律法の定めどおりに石打ちにせよと言えば、そのような極刑を下す権力を持っているのはローマから派遣された総督だけですから、ローマ帝国の主権を侵害する反逆罪になります。逆に、石打ちにしないで赦してやれと言えば、それはユダヤ教の律法に従わない異端もしくは背教者ということになって、これもまた宗教法廷に告発される結果を招きます。


 このように、どう答えてもイエス様を断罪できると考えて仕組まれた罠で、その点ではローマ帝国への納税の是非を問うた別の罠と同じ構造になっています。税金問題では「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」という答えでみごとに罠をすり抜けたイエス様は、ここでもまた、想定外の対応をして、ファリサイ派の陰謀を出し抜いたという、そのようなストーリーになっています。「汝らの中、罪なきものまづ石を擲て」という一言を返すことによって、告発しようと待ち構えていた側が、逆に自分の罪を問われ、立場が完全に逆転したわけです。


 ファリサイ派に限らず、とかく規則や法律やルールを振りかざして他人の言動の非違を咎め立てようとする人々は、自分に甘く、他人には厳しいという傾向があるようにおもいます。他人を裁いて責めることに敏感な人間は、往々にして自分は一度も罪を犯したことがないかのように振る舞い、自分の言動には鈍感だという事例は私たちが経験的に知っているところです。イエス様がみごとに罠をすり抜けたという顛末のほかに、私たちは「省みて他を言うべし」という自己批判の勧めをここから汲み取らなければならないのだと思います。


 さはさりながら、です。ここにはもうひとつ、私たちが陥りやすい罠が仕掛けられているようです。「罪なきものまづ石を擲て」。これを「罪のないものはいないのだから、誰も石を投げてはならない」と反語的に解釈し、「お前が人のことを言えるのか、お前だってやってるじゃないか」と反論して、自分を免責してしまう罠です。端的に言えば、自分の欠陥や罪状を指摘されて、「お前が言うな」といった逆切れのような状況を作り出して責任の所在を曖昧にするということでしょう。これもまた、別の形ではありますが、他人に厳しく、自分に甘いという行動様式の典型なのではないでしょうか。


 私たちは、独りで生きているわけではありません。家族であれ、学校であれ、職場であれ、それは複数の人間によって構成される共同体にほかなりません。そのような共同体を維持し、存続させていくためには、共通の規則やルールを遵守する絶対的な必要があります。それは、そのまま、規則やルールがいったん破られた場合に、これにどう対処するかという問題に直結するわけです。対処のあり方は、規則やルールの具体的な内容や共同体の性格によって違ってくるでしょう。しかし共通して考えなければならないことは、イエス様が示されたような、自己批判の精神なのではないでしょうか。他人の罪や失敗に対して、鬼の首を取ったかのように振舞うことも、自分が糾弾されたときに「お前が言うな」とばかりに逆切れする姿勢も、そうした本来の自己批判の精神からは対極にあるように思えるのです。