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9月20日 礼拝奨励34

「敬神奉仕」の指し示すもの

マルコによる福音書第1228節~31



前期に毎月お話を進めてきたテーマは、東洋英和女学院のスクールモットーである「敬神奉仕」についてでした。今年は、この四文字が学院標語として定められてからちょうど90年目になります。ですから、後期最初の私のお話も、もう一度この標語が何を指し示しているのかを革めて考えてみるところから始めてみたいと思います。


普通に考えれば、「神を敬う」ということは、「私の心の中の問題」です。そして、「人に仕える」ということは、私たちが社会の中で「なにを、どのように実践するか」という問題です。聖書に親しんでいる人間にとっては、この「敬神奉仕」という四文字は、スッと心に沁みてくる言葉です。だからといって、この部分はキリスト者だけに意味のあることなのでしょうか。そうではないだろうと思うのです。キリスト者であろうがなかろうが、「私の心の中の問題」と、「私たちの社会の中の実践」とは、誰にとっても人生の重大事に違いないからです。


ここでは先ず、「私の心の中の問題」、つまりイエス様のおっしゃる最も重要な掟である『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい』という戒めについて考えてみたいと思います。


思い切り広く解釈すれば、ここは私どもすべてに対して「自分なりの規範を持て」という勧めだと私には捉えられます。どういうことでしょうか。おそらくそれは、人間がその他の動物と異なっている点は何かということに関わってくるのではないかと考えます。つまり、「自ら規範を設定して生きる」というところに、人間が人間である所以があるように思えるのです。規範とは、ひとそれぞれでしょう。法律であったり、道徳であったり、場合によっては自分の覚悟であったりします。自分の判断や行動のよりどころとなる基準のことです。もとよりそれらの規範は、「自然法」という観念が相対化された、われわれの生きる現代社会にあっては人為的な価値基準、すなわち基本的に恣意的なものに過ぎません。フィクションであると言ってもよろしい。しかし、規範がなければ人間はおそらく人間らしく生きられません。動物に備わっているのは本能であって、本能はリアルに生存を追求するためには不可欠ですが、単に生存するだけであれば規範のようなフィクションは必要ないでしょう。


ただ生きるのではなくて、人間らしく生きるためには規範を持つことが欠かせません。規範はフィクションであることをわきまえて、なおかつ自分が納得した規範に従って生きること。「善く生きる」とは、このような心構えの中から生まれるのだと思います。


ところが、自分固有の規範は、つまるところ自分で考えるほかありません。自分の生き方は自分で決めるほかない。いやだと駄々をこねても仕方がないでしょう。他人の考えや他人の教えは最終的には役に立たないからです。私どもは、自分たちが自由であるべきだと考えていますし、常日頃その自由を追い求めています。自分の規範を自由に自分で決めて、しかしその規範に従って判断し行動した結果は自分で引き受ける。自己決定・自己責任というのは私どもが自由であることの代償です。かけがえのない自分という、それが本当の意味です。自分の生き方を、他人の意見に従って決めているうちは、「善く生きる」ことはできません。そこでうまくいかなければ、それは他人のせいになってしまいますから。自分で決定すれば、うまくいってもいかなくても、あきらめがつきます。自分固有の規範を持つというのは、そういう意味です。


「あなたの神である主を愛しなさい」という聖句もまた、そのような規範の一つのモデルとして聞き、それが自分にとっては何を意味し、どのように自分自身の規範に生かし得るかという姿勢で考えてくださればよろしい。ひとつ注意すべきは、ここでは『愛しなさい』という命令形、もしくは『愛する』という能動態が使われているところです。これもやはり、私どもの自由との関連で論じることができるのではないでしょうか。神であろうが、他人であろうが、私は自分以外の存在に対して何かをすることはできます。それは私の自由ですから。しかし他者には、私に対して私の好きなことをしなければならないような義理はないのです。キリスト者にとって見れば、「愛する」ことは権利であると同時に義務でもあると受け止められることが多いでしょう。ですが一般には、他者を愛する権利はあるけれども、それは義務ではないということになりそうです。裏を返せば、私どもには隣人を愛する権利はあるけれども、隣人から愛される権利はないということにほかなりません。他人を愛する権利、他人を敬う権利、他人に奉仕する権利、他人に優しくする権利はあるけれども、他人から愛される権利、他人から敬われる権利、他人から奉仕される権利、他人から優しくされる権利といったものは存在しないのです。他人の行動を自分のコントロールの下に置く権利など、誰も持っていないのです。いわゆるストーカーや衝動殺人事件の多くは、そのあたりを根本的に取り違えているところから生じてくるのでしょう。


私どもは、隣人を愛することで、隣人から愛される権利を担保されるわけではありません。この世の中においては、契約に基づかない自主的な行動の場合、見返りを期待することは本来的な錯誤にほかなりません。相手に自分と同じ行動パターンを取れと迫ることはできないのです。このことを前提に「敬神奉仕」の聖句を吟味してみれば、そこには「愛せよ」という強い口調から連想される杓子定規なメッセージとは少々異なるニュアンスが見えてくるように思えます。それは愛する権利を行使する方が、行使しないよりも、あるいはその逆つまり愛さない権利を行使するよりも、より「善く」生きることができるのだという、主イエス・キリストの勧めであるということに気づかされるのです。


学長 池田明史