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7月12日 礼拝奨励33

教えることと教えられること

マルコによる福音書第1232節~34

前期のチャペルでの話は、本学のスクールモットー「敬神奉仕」の出典をめぐって、いわゆる共観福音書のそれぞれがどのような記述や解釈を行っているかを扱って参りました。今回は、ちょっと視点を変えて、質問した律法学者とそれにお答えになったイエス様との間の問題を考えてみようと思います。


最も重要な掟は何であるのか、と質問した律法学者の姿は、マルコ伝の伝えるところによれば、マタイ伝やルカ伝のようにイエス様を試そうとしたのではなく、純粋に教えを乞うているように見えます。その証拠に、彼はイエス様の答えを聞いて、おそらくはハタと膝を打って「先生、おっしゃるとおりです」と感嘆しています。これに対してイエス様も、「適切な答えだ」と認めて、「あなたは、神の国から遠くない」と評価しています。


しかしこの場合、「おっしゃるとおりです」というのはどういう意味だったのでしょうか。質問者もまた常日頃からそのように考えていて、それと同じ答えが返ってきたので、「わが意を得たり」とばかりに感嘆したのでしょうか。そうではありますまい。この律法学者は、敬神奉仕の掟が「どんな焼き尽くす献げものやいけにえよりも優れています」とわざわざ説明しています。それは、イエス様への応答であると同時に、自分自身に対して言い聞かせているようにも聞こえます。想像を逞しくして言えば、律法学者はイエス様との問答を通じて、いわゆる「目から鱗」の体験をしたのではないかということになります。


「焼き尽くす献げものやいけにえ」というのは、人間が、神の怒りをなだめるために、律法の細かい規定に従って捧げる献げもののことです。当時のユダヤ人社会にあっては、律法に定められた通りに犠牲を捧げる祭儀が、教義や教理の具体的な実践、つまり掟を守りルールにしたがうことの典型と位置付けられていたようです。掟やルールには、それが定められる本来の目的があったはずです。しかし、ただ掟だけが一人歩きし、その掟が目的としていたことが忘れられてしまうと、ただ掟を形式的に守るだけという事態、すなわち掟の形骸化・空洞化につながってしまうのです。ある目的を実現するために定められる掟が、掟のための掟、つまり自己目的化していく。最も重要な掟をイエス様に問うたこの律法学者は、イエス様の答えによって、目的と手段が転倒している現実に気が付き、そして驚愕したのではなかったのでしょうか。「おっしゃるとおりです」という彼の言葉には、「目から鱗が落ちました」というニュアンスが感じ取れるように思うのです。


律法学者というからには、普段は人々に教える立場に置かれていたはずです。その彼がイエス様の一言隻句を耳にして、「目から鱗」の劇的な体験を得ることができたのは何故でしょうか。おそらく彼は常日頃、自分が教えながら、あるいはそれに対する人々の応答の中から、何かしら教えられることがあるのだと考えていたからだと思います。教えることはそのまま教えられることなのです。それがわからないような人間は、教える側の立場に立つべきではないと私は思います。


最後になりますが、このごろ一寸気にかかっていることを申し述べておきましょう。私は気が向けば、また時間が許せば、早朝に近所を散歩することにしています。その散歩コースに三つか四つほど、小学校があります。最近気が付いたのですが、地域の防犯協会や所轄の警察署などが作ったこども相手のポスターがあっちにもこっちにもベタベタと貼られているのです。剣道の選手が竹刀を正眼に構えてこちらに向けている写真の上に、大きくスローガンというか、標語が書いてあります。「万引きをしない勇気とさせない社会」。昨今、「万引き家族」という映画が国際的に評価されて話題になったので、それまであまり意識しなかったこのポスターがやたら目につくように感じるということもあるのかもしれません。


しかし、これでもかというぐらいポスターやら標語やらが目に入ってくるようになると、当初は特に何の変哲もないと受け流していた「万引きをしない勇気とさせない社会」という言葉が、どうにも気になって仕方がありません。「万引きをしない勇気」?そんなものを勇気というのでしょうか。万引きの替わりに、セクハラや、泥棒、殺人など、言葉を入れ替えてみれば一目瞭然でしょう。「させない社会」?どんな社会なのでしょう。万人の万人に対する監視が行き渡る空間のことでしょうか。そして極めつけは竹刀をこちらに突きつけている剣道選手の大写しの写真です。「健全な精神は健全な肉体に宿る」ということでしょうか。武道やスポーツをしていれば「万引きをしない勇気」が湧いてきて「させない社会」が実現するのでしょうか。つい最近のアメリカンフットボールや女子レスリングの不祥事をみれば、そんなものが幻想に過ぎない現実は明らかでしょう。どこかで、目的と手段との本末が転倒しているのではないでしょうか。いったいどこで?毎度のことですが、本日はこれを皆さんの考える材料として提供したいと思います。