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5月24日 礼拝奨励32

あなたはそれをどう読んでいるか

ルカによる福音書第1025節~37


 前回ここでお話したのは、本学のスクールモットー「敬神奉仕」の出典というテーマでした。本来それは、マルコによる福音書の第1228節~31節なのですが、共観福音書の別の一書であるマタイ伝22章の記述を取り上げて、両者の異同をお示ししたのでした。本日はさらにもう一つの福音書、ルカ伝に見える同じような内容の部分を考えてみようと思います。ここには、ルカ伝だけに見られる「善いサマリア人の譬え」話が含まれています。


先ず目につくのは、ほかの二つの福音書とは違って、「敬神奉仕」が大事だと言っているのはイエス様ではなくて律法学者の側だというところでしょう。イエス様はこの律法学者の問いかけに対して、「あなたはそれをどう読んでいるか」と反問していて、律法学者がかくかくしかじかと答えたのに対して「正しい答えだ」と肯定しているに過ぎません。ところがこのやりとりに満足しない律法学者が重ねて「では私の隣人とは誰なのか」と問いかけたところで、初めて「善いサマリア人の譬え」を語ることによって何が真理なのかを示されたというわけなのですね。


このストーリーの中で、私が注目したいのは二点あります。第一は、26節の言葉「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」というところです。なんと書いてあるかという問いに対しては、比較的容易に答えることができます。律法であれ、教科書であれ、あるいは小説であれ、われわれの場合、日本語で書いてありさえすれば誰が見ても同じ文字列が綴られているのですから、同じ答えが出てくるはずです。問題は、どう読んでいるかというところです。法律であれば、法解釈が違えば争いになり、最後は裁判所に決着をつけてもらわなければなりません。教科書であっても、どう読むかで何を学んだかが異なってくることになります。小説や映画であればなおさら、その解釈や受け止め方は人によって千差万別でしょう。


 第二の注目点は、譬え話の最後にイエス様が律法学者に尋ねた言葉です。「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」との質問です。律法学者の問いは、「わたしの隣人とは誰か」というものでした。これに対してイエス様の問いは、「誰が隣人になったと思うか」というのです。両者の違いは明らかです。律法学者の側は、どのようなカテゴリーの人間が自分の隣人と看做せるのかという、いわば人間の帰属の類型論です。家族なのか、友人なのか、近隣地縁のある人々なのか、同じ言葉を話す同族なのか。そのような静態的(スタティック)な規定に限りなく近いように思います。これに対してイエス様が聞いているのは、「誰が隣人になった(...)と思うか」ということです。「なった」というからには、行動の結果として隣人でなかった存在が隣人に変化するということになります。非常に動態的(ダイナミック)なプロセスにほかなりません。その行動がどのようなものだったかは譬え話で丁寧に語られ、説明されていますから、ここで繰り返す必要はないでしょう。


 前回も申し上げましたが、わたしの役割はこの場で皆さんに対して考える材料やヒントを差し上げるところにあって、わたしの考えをそのまま皆さんに押し付けることではありません。なぜわたしがここに挙げた二つの点に注目すべきだと思うのか。考えるのは皆さん自身です。あなたはそれをどう読んでいるか。これはまさしく、皆さんに投げかけられている問いかけなのです。


 ですがひとつ、このサマリア人の譬えを読むたびにわたしが想起させられる問題を紹介して締め括りたいと思います。それは、紛争地を逃れてわが国にやってくる難民の認定や受け入れをめぐる問題です。シリア難民やミャンマーのロヒンギャ難民が、国際社会の関心の焦点となっている現在、そのような関心の裏返しとしてわが国における難民の処遇に対する国際的な風当たりが強まっているように思われます。なぜでしょうか。実は難民に対する加盟国の態度を取り決めた「難民の地位に関する条約」が締結されたのは1951年、これを補完する「難民の地位に関する議定書」が採択されたのは1967年のことです。これらを合わせて一般に「難民条約」と呼んでいますが、そこでの難民の定義は「人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の社会的集団に帰属するなどの理由で自国にいると迫害を受けるか、または迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた人々」というものです。この文言の字面には、戦争や紛争のゆえに国外に流出した人々は難民のうちに数えられていません。この定義をどのように運用するのか、どう解釈するのかは各加盟国の裁量に委ねられています。どう書いてあるか。こう書いてあります。ここでまさしくわれわれは、あなたはそれをどう読んでいるか、と問いかけられていることになります。


 日本は、難民条約の定義にある文言を一字一句厳密に解釈し、政治難民のみを受け入れ、戦争や貧困によって国外に流出する人々を経済難民として、難民認定の対象としていません。それはあたかも、律法を厳格に守りながら「道の向こう側を通って行った」祭司やレビ人の姿勢と重なります。「あなたは誰が隣人になったと思うか」という眼差しの前に、立ちすくむ思いのする所以です。


以上