大学概要

4月26日 礼拝奨励31

敬神奉仕」の意味内容

マタイによる福音書第2234節~40
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人人を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


 学生の皆さんは、本学を受験する際にここがどのような大学であるのかについて一通りの情報に触れて来ているはずですし、少なくとも入学式の式辞や祝辞を聞いているはずですから、革めて言うまでもありませんが、東洋英和女学院のスクールモットーは「敬神奉仕」の四文字に集約されています。その拠りどころとなる聖句は、マルコによる福音書の第1228節~31節とされています。ところが、新約聖書には福音書が全部で四つありまして、同じ話がほかの福音書にも記述されています。そのひとつが本日の聖句で、マタイ伝22章のこの箇所です。もう一つ、ルカ伝にも同じ内容の記述が1025節~37節にあって、これは有名な「良きサマリア人の譬え」の導入部分になっています。


 マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝の三つの福音書は、共通する記述が多く、同じような表現が使われているので、一般に共観福音書と呼ばれています。しかしながら、だからといってこの三つの福音書が同じ物語に対して同じ解釈を行っているかといえば、そうではありません。先程述べたように、ルカ伝ではサマリア人の譬えとセットになっていますし、マタイ伝でもルカ伝でも、イエス様に質問する律法学者は、イエス様を試そうとか、陥れるためにこのような質問を行っているとして、悪しざまに描かれています。これに対して、マルコ伝では、律法学者はイエス様がほかの律法学者たちと論争して立派に答えているのを見て、本心からこのような質問を行っているものとして描写されているのです。実際、この律法学者は、マルコ伝全体を見渡しても、正しい認識を持つ律法学者として肯定的に言及されているただ一人の事例になっています。イエス様は、この律法学者に対して「天国から遠くない」という賞賛の言葉を与えており、マタイ伝やルカ伝とはまったく異なる評価をしているということになります。


 聖書というのはこのように、同じ話を伝えているように見えて、実はそのテキスト自体が異なる解釈の上に立っているさまざまな文書の集積にほかなりません。これはある意味、当然といえば当然でしょう。聖書といえどもその一つ一つの文書を書いているのはそれぞれ異なる人間なのですから。同じ聖典とか、経典とか言っても、この点が例えばイスラームのコーランなどとは決定的に違うところです。コーランの場合は、イスラームが唯一の神とするアッラーが最後の預言者であるムハンマドの口を使って(わかりやすく言えば「憑依」して)直接人々に語りかけた、その言葉が集められて一つのまとまった聖典になっています。コーランはすなわち、神の言葉それ自体にほかなりません。少なくとも、そのように信じる人々のことをわれわれはムスリムと呼ぶのです。


 キリスト教の聖書は、そのようなものではありません。それは、神とか神の子とか主とか呼ばれながら、現実にこの世を生きた存在の言ったこと、やったことを、これもさまざまな立場で現実にこの世を生きた人間たちが書きとめて残した文書や手紙の集成です。誰が誰に宛ててその文書や手紙を書いたかも、その真偽はともかくとして、ちゃんと残っています。その意味では、異なる経歴や立場の人間から見れば、同じ一つの事件や状況が、違う見方で見られ、場合によっては対立する解釈が取られていくという、実に人間的な状況がそこに出現することになります。それはつまり、聖書の言葉には解釈の余地が拡がっていく構造が内在している、ということにほかなりません。どのテキストの解釈を採るか、だけではなくて、同じ人間が同じテキストを読んでも、その人間がどのぐらいの人生経験を経てきたか、どのような状況を抱えているか、などによって、解釈はさまざまに変わり得るのです。


 さて、それではこの東洋英和女学院のスクールモットー「敬神奉仕」は、どうしてマタイ伝やルカ伝ではなく、マルコ伝の解釈を採用しているのでしょうか。このことについて、皆さんはどのように解釈されるでしょうか。少し考えてみていただきたいと思います。言うまでもありませんが、大学とは考える材料を提供し、皆でああでもない、こうでもないと議論する場を提供し、さらには考えるヒントや方向を示す機会を提供するところです。しかし、考える主体は飽くまでも皆さん自身です。自分ならこう考える、自分であればこのように解釈するという意志が無ければ、どれほど立派な環境が整っていても、意味がありません。そのような意志のことを、「主体性」と呼びます。皆さんが、この大学でのまなびを通じて、主体的に生きる姿勢を身に付けて行って欲しいと願って止みません。


以上