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1月18日 礼拝奨励 30

メメント・モリ(承前)
~コヘレトの言葉 第1章2節~
      コヘレトは言う。
      なんという空しさ
      なんという空しさ、すべては空しい

 前回のここでのお話は、やはりコヘレトの言葉の7章冒頭部分から、「死ぬ日は生まれる日にまさる」という一節を中心とした部分から考えたことを申し上げました。このコヘレトの言葉という文書は、かつては「伝道の書」あるいは「伝道者の書」と訳されて、宗教の経典というよりも何か深遠な哲学書のような印象を与えておりました。実際に、この書物をかのニーチェが唱えた近代の虚無主義(ニヒリズム)の淵源と看做す議論も存在したようです。そのためか、数々の文学作品にインスピレーションを与えたことが知られています。例えば、ヘミングウェイの「日はまた昇る」という小説のタイトルや、アカデミー賞を受賞した映画にもなった「屋根の上のバイオリン弾き」の主題歌「サンライズ、サンセット」は、本日の言葉のすぐあと、1章5節「日は出で日は入りまたその出でしところに喘(あえ)ぎゆくなり」というところから取られたものだそうです。


 そして、おそらくこの書物の中でもっとも有名な文言が、本日取り上げたこの個所、文語体で「伝道者曰く、空の空なるかな、すべて空なり」というところなのではないかと思います。文書の脈絡から切り離して、この言葉だけを聴けば、何やら「色即是空、空即是色」といった仏教的な諦観の教えにも通じるような響きを持っていますので、とりわけ般若心経が人気の日本人の間でもてはやされたのもわからないではありません。空とは何か。空虚か、無駄か、無意味か。コヘレトの言葉の別の部分、2章11節にはこうあります。「我わが手にてなしたる諸々の事業および我が勞して事をなしたる勞苦を顧みるに 皆空にして風を捕ふるが如くなりき 日の下には益となる者あらざるなり」。つまり、「私の手で成し遂げたことや、成し遂げるために要した労苦すべてを顧みたとき、見よ、すべてはむなしく、風をつかもうとするかの如くで、日の下で得たものは何ひとつなかった」というのです。


 さて、私がちょうど学生の皆さんと同じ年頃の時期、若気の至りというか、客気に溢れていたころ、あるお寺の高僧と御話しする機会がありました。私は、自分が自分の人生を担っていくという気負い満々で、そのお坊さんに自分の運命は自分で切り拓いていくんだというような書生っぽさ丸出しの議論を吹っ掛けていたのです。そのお坊さんは、終始にこにこしながら私の主張を聞いてから、おもむろにこう問いかけてきたのです。「君の運命は君が決めるというんだね。それでは聞くが、君は何年何月の何日、何時何分に死ぬのかね?」。


 二の句が継げませんでした。自分が生きる自分の人生は自分が決めるんだと信じ込んでいながら、私は自分が死ぬときのことなんか一切考えもしませんでしたから。そして、よくよく考えてみたら、私は自分が生まれたときも、どういう親から生まれたのかも、どんな人々と出会ったかも、自分で決められたことなんか一つもなかったという事実に突き当たったのでした。
 それから40年が過ぎ、最近も似たような衝撃を覚えた出来事がありました。60歳を超えると、身体のあちこちにガタがきて、血圧やら血栓やら何やかやでいろいろな薬を医者から貰って飲むようになっています。二か月に一回、病院に薬をもらいに行くのですが、それで安心して家に帰ってきて、ふと「ああ、これであと二か月は生きていける」と呟いたのです。すると、それを耳にした家人から、臓腑を抉るような言葉が飛んできました。「薬飲んでるだけで生き延びられると思ってるのか、お前は」というのです。寸鉄人を刺すとはこのことですが、しかしよく考えてみればその通りで、この二か月の間にどのような天変地異が起きるかわかりませんし、交通事故に遭うかも知れないし、通り魔に刺されるかもわからない。何かの行き違いでミサイルが飛んでくる可能性だって皆無ではない。そもそもこの薬が効いているのかだって怪しいものです。夜寝て、次の朝二度と目覚めないどころではなく、いま生きていると実感した次の瞬間にこの世とオサラバしていてもおかしくはありません。


 「伝道者曰く、空の空なるかな、すべて空なり」とは要するにそういう感覚と通底しているように思えるのです。前回お話ししたように、「メメント・モリ」すなわち「死すべき定めの人間」あるいは「汝の死を覚えよ」という警句でコヘレトの言葉が想起されるというのは、そういうわけです。私たちは自分の運命の支配者ではありません。人間の限界の壁を決して突破できないからです。だからこそ、コヘレトは告げるのです。「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」と。