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11月23日 礼拝奨励29

メメント・モリ

~コヘレトの言葉 第71節・2節~
名声は香油にまさる。

死ぬ日は生まれる日にまさる。

弔いの家に行くのは

酒宴の家に行くのにまさる。

そこには人皆終りがある。

命あるものよ、心せよ。

中学生だか高校生だかの頃に、英語の副読本で"Good-by, Mr. Chips"(「チップス先生、さようなら」)という短編小説があって、その主人公である英国のパブリック・スクールの教師(チップス先生)の台詞をいまでも覚えています。「不公平ですな、私たちは毎年歳をとるのに、学生たちはいつでも若い」という嘆きの台詞です。おそらく、私自身が教師であって、毎年、入学式や卒業式、あるいはゼミ合宿などを繰り返し経験しているので、この言葉をとりわけて噛み締めることが多いからなのでしょう。学生諸君は毎年入れ替わっているので、常に20歳前後のままですが、教師は確実にひとつまたひとつと歳を重ねていきます。


実際、自分の学生時代、あるいは20代の頃を想い起こすと、「歳をとる」ということについて、頭ではわかっていても、実感としてはよくわかりませんでした。私は昭和30年生まれですので、高校に入ったときも、大学に入ったときも、上級生から「ついに昭和30年代が入ってきた」と言われたのですが、なに、言っている側も一つか二つぐらいしか違わないわけで、そんなに自分が歳をとったという感覚を持っていたはずはなかったと思います。同様に、来年度の入学試験では、2000年生まれの人たちが受験生になるわけですが、だからといって現在の学生諸君が自分の歳を痛感するということはないのではないでしょうか。


しかしながら、学生諸君のほぼ3倍の年代に達したいま、無駄に馬齢を重ねるだけで、特に賢くなったとも、人格が丸くなったとも、心が豊かになったとも思えない自分の境遇を振り返ってみるとき、チップス先生の「不公平ですな」という嘆きはそれなりの切実な実感として共感できるように思います。この歳になれば、老化のスピードだけは加速度をつけていや増して居るのがひしひしとわかるからです。「正月は、冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」といいますが、この一里塚を通過する時間が年々短くなるのです。


なぜ、「不公平」と感じるのでしょうか。それはまさに、歳をとるにしたがって人生の短かさを実感するからでしょう。おそらく学生諸君は、人生が短いと思っていないのです。私の年代の人間と学生諸君の年頃の人間とでは、流れる時間の速度つまり体感時間が違うのです。若いということを「春秋に富む」と表現しますが、未来は経験できませんから、体感時間は要するに過去の記憶の量によって左右されるのでしょう。歳をとれば、初めての経験は若いころに比べればどんどん減ってきます。新しい経験と言っても、老年のそれは青年のそれとでは新しさのレベルが異なります。ですから、人生を流れる時間は徐々に加速してくるのです。「少年老い易く学成り難し」とは、老人の繰り言であって、当の少年の口からは決して発せられる言葉ではありません。


このように考えると、本日の聖句もまた体感時間の短い人間の感懐であろうということがわかります。少々趣を変えて、文語体で読んでみましょう。「名は(よき)(あぶら)(まさ)り、死ぬる日は生まるる日に(まさ)る。哀傷(かなしみ)の家に入るは宴楽(ふるまい)の家に入るに(まさ)る。()一切(すべて)の人の終わりかくのごとくなればなり。生ける者またこれをその心にとむるあらん」。であればこそ、この言葉を発した人物もまた、「一寸の光陰軽んずべからず」と付言することを忘れないのです。このコヘレトの言葉の最終12章の冒頭には次のようにあります。「(なんじ)(わか)き日に汝の造主(つくりぬし)(おぼ)えよ。即ち悪しき日の(きた)り年のよりて我は早何も楽しむところなしと言うに至らざる先」。


本日のお話のタイトル「メメント・モリ」とは、「死を覚えよ」という意味のラテン語です。どんな人間にも必ず死はやってくる、そのことを忘れるな、というほどの中世ヨーロッパの警句なのでしょうが、私にはかつて「伝道の書」と訳されたこのコヘレトの言葉に接するたびに想起される文言なので、標題と致しました。なぜそうなのかはまた機会を革めてお話することにしたいと思います。

以上