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4月13日 礼拝奨励25

「善く生きる」ということ
-マルコによる福音書 第12章28節~31節-

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

皆さんは、入学式やオリエンテーションのときから、あるいはそれ以前、未だ入学される前のオープンキャンパスや受験相談の頃から、本学のスクールモットーである「敬神奉仕」という言葉を何度も耳にされたことと思います。革めて言うまでもありませんが、これは本日読み上げた聖書の箇所の意味するところを四文字にまとめるとこうなるという、いわばキリスト者にとってのスローガンやガイドラインのようなものです。皆さんの大多数はこれまで教会とは馴染みのない生活を送ってこられたのでしょうから、この大学に入っていきなりこのスローガンを示されても、どう受け止めていいのか戸惑ったり面食らったりする人もいるかも知れません。

誤解していただきたくないのは、「敬神奉仕」というスクールモットーを掲げていること、あるいは折に触れてこのスローガンを皆さんに示していることは、必ずしも皆さんを改宗させようとか、キリスト者のように振舞わせようと慮ってそうしているわけではないというところです。もとより、この大学に入学されたことがきっかけとなって、キリスト教や聖書に親しみ、礼拝や教会に導かれる人が出てくるのは大歓迎ですし、私どもにとっては嬉しいことです。ですが、本学は自由な日本の社会の中に建てられた大学でありますので、キリスト教の教えに則って学生諸君の人格の涵養を目指しつつ、同時にどこまでも日本国憲法の精神を尊重していかなければなりません。その日本国憲法は、第19条で「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」と定めてありますし、続く第20条では「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と謳っております。要するに皆さんは、聖書の言葉や礼拝の場に親しむ機会を豊かに与えられている一方で、キリスト教の特定の解釈や教義を無理矢理押し付けられる心配はないということになります。

それでは何故、私どもは節目節目に、あるいはことあるごとにこの「敬神奉仕」の四文字を皆さんに示しているのでしょうか。一言で言えばそれは、皆さんに「善く生き」ていただきたいからです。皆さんもひとたびこの世に生まれてきたからには、「ただ生きる」のではなくて、「善く生きる」ことを望んでいるに違いないと思います。「生きている物」と書いて「生物」と読みますが、人間が、動物であれ植物であれ他の生物と決定的に異なっている点は何でしょうか。アルトゥル・ショーペンハウアーというドイツの哲学者は、「生物とは生きんとする盲目の意志である」と言ったと伝えられますが、盲目の意志とは要するに本能のことです。動物に備わっているのは本能であって、本能はリアルに生存を追求するためには不可欠です。また、トマス・ホッブスというイギリスの思想家は「自然状態で人間を突き動かしているのは自己保存の欲求である」と喝破しました。人間もまた動物である以上、自然状態で放っておけば本能のままに行動するだけだという意味でしょう。そのような、「ただ生きる」というあり方ではなくて、可能な限り「人間らしく」生きること、それが「善く生きる」ということにほかなりません。

もちろん、「何を以て『人間らしい』と言えるのか」は、それ自体なかなか難しい問題です。人によっては、「本能の赴くままに行動することこそ人間らしい」と嘯く場合だってあるかも知れません。ですが、私は、「人間らしい」というのは、本能を押さえ込む、あるいは欲望を上手に解放するに足る規範を自分の中に持っているかどうかだと考えています。つまり、「自ら規範を設定して生きる」というところに、人間が人間である所以があるように思えるのです。それでは、規範とは何でしょうか。それこそ人それぞれというしかありますまい。それは人によって、法律であったり、道徳であったり、場合によっては自分の覚悟であったりします。自分の判断や行動のよりどころとなる基準のことです。もとより、そうした規範は基本的に恣意的なものに過ぎません。フィクションであると言ってもよろしい。しかし、規範がなければ人間はおそらく人間らしく生きられません。規範はフィクションであることをわきまえて、なおかつ自分が納得した規範に従って生きること。「善く生きる」とは、このような心構えの中から生まれるのだと思います。

そのような自分固有の規範は、自分で考えるほかありません。自分の生き方は自分で決めるほかない。いやだと駄々をこねても仕方がないでしょう。他人の考えや他人の教えは最終的には役に立たないからです。これは、自由であることの代償です。かけがえのない自分という、それが本当の意味です。自分の生き方を、他人の意見に従って決めているうちは、「善く生きる」ことはできません。そこでうまくいかなければ、それは他人のせいですから。自分で決定すれば、うまくいってもいかなくても、あきらめがつきます。

しかし当然ながら、規範も無から生じるものではありません。自分なりの規範を作るといっても、どこかに取っ掛かりやモデルがなければ、どうやって作っていいのかわかりませんからね。そういう意味では、誤解を恐れずに言えば「キリスト者」という存在は、聖書のなかの数々の言葉を、現世の規範を超越した規範として認めて受け容れ、これをモデルとして自分固有の規範を作り出そうという人々にほかなりません。私どもが「敬神奉仕」を掲げて皆さんに示しているのは、ひとつには皆さんが設ける規範の取っ掛かりやモデルとしてもこの言葉は非常に有効だと考えるからです。何故そう考えるか、どのようにこのスクールモットーを解釈すべきかについては、次回から諄々とお話していくつもりです。キリスト者であろうがなかろうが、そこには皆さんそれぞれの心の中に自己規範を設けることによって自分の人生をより「善く生きなさい」という、皆さんに対する私どもの願いと勧めとが込められていることに思いを致していただければと思います。