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2016年7月 生徒礼拝<高等部3年>

詩編 37編23

主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる


「人を思いやる」

 みなさんには、こんな風になりたいという目標はありますか。目標には、たとえば、医者になりたいといった明確な目標から、芸能人の誰かのように細く可愛くなりたいというものまで、いろいろなものがあると思います。私は、あまり意志が強い方でもないので、常に意識しているというよりは、日常なんとなく思っている目標があります。それは「人を思いやる」ということです。このことを当たり前だと思う人がいるかもしれませんが、世の中に当たり前のことを当たり前にできる人はそうそういません。

 ところで、みなさんは当たり前って何だと思いますか。世の中にはたくさんの人がいて、その人たちが感じる当たり前が、自分には信じられないように感じられたり、またその逆のこともたくさんあります。人には人それぞれの価値観があるので、自分の当たり前を人に押し付けるのはよくないことですが、私は誰にでも通用する当たり前があると思います。

 まず、挨拶をするということです。家族や友人にしたり、警備員さん、すれ違った先生にしたり、一日の中でする挨拶は多いと思います。言ってしまえば、ただの言葉でしかない挨拶ですが、挨拶をするということは相手の存在を認識しているという明確な表れだと思います。高三は修養会で講師の小野先生に「笑顔は相手への敬意だ」と言われたのを覚えていると思います。挨拶をする時、たいていの人は、口角が上がり、自然と笑顔になっています。人は誰かに存在を認めてもらって初めて自分らしくいられるので、お互いの存在を認識して敬意を伝える挨拶は大切だと思います。

 また、自分らしさがどういうことかを深く考えるよりも前に、単純に挨拶をしてもらったら無視されるよりも断然うれしくないですか。ご存知の人もいると思いますが、私はテニス部だったので、校内で後輩に挨拶されます。自分が後輩だったときは、ただの義務でしかなかったのですが、高三になって後輩と会う機会が減ると、どこからか聞こえてくる、誰からかわからないような挨拶でも、近くに後輩がいたことがわかって、ああ、私のことを無視しないでくれたんだなとうれしく思います。

 次に、お礼とおわびの言葉をちゃんと言うことです。人に何かをしてもらったら、お礼を言いましょうなんて、幼稚園の時に言われるようなことですが、何かをしてもらった時、たとえその何かが、おせっかいでしかなくても、その人が自分のことを考えてくれてやってくれたのだから、その気持ちにだけでも感謝をすべきだと思います。最近は、エレベーターに乗っていると、自分の降りる階でドア付近の人が自分のためにボタンを押してくれているのに、音楽を聴いていたり、手に持ったケータイから目を離さずに降りていく人をよくみかけます。ちょっとしたことでも、誰かの心づかいで、自分が心地よく何かをできていることを忘れてはいけないと思います。

 また、人は何か良いことをみたり、されたりすると、自分も良いことをしようという気持ちになります。ちょっとしたことに対してでも、感謝の気持ちを口に出して言うと、そうすることによって、良いことをされたんだということがよくわかって、良いことをする精神がわきあがってくるのではないでしょうか。この精神がいろんな人へと伝わり広がっていけば、みんなが気持ちよく過ごせるようになると思います。

 おわびの言葉についてですが、みなさんはAC JAPANの「セトモノとセトモノ」というCMを見たことはありますか。相田みつをさんの詩が引用されていて、その詩は、「セトモノとセトモノと ぶつかりっこするとすぐこわれちゃう どっちかやわらかければだいじょうぶ そういうわたしはいつもセトモノ」というものです。コンセプトは「やさしいこころをもちましょう」というもので、様々なイライラで溢れている世の中に、ちょっとしたことを許せる気持ちが不足しているとして、おおらかでいることの大切さを伝えています。ちょっとしたことでもイライラが積み重なればストレスが溜まっていき、感謝のときの良心の広がりとは逆に、イライラの広がりが起こって、あちこちでギスギスした雰囲気になって息苦しくなってしまいます。たとえば、人とぶつかり合ったときに、その人と視線を交わすだけではなく、自分が一歩引いて一言謝ればお互いに気持ちよくなれるのではないでしょうか。

 最後は、人の話をちゃんと聞くということです。これは、学校でよく言われたりしますが、人の気持ちを思いやると、とても大切なことだと思います。日常生活や学校生活において半強制的に全く興味のない話を聞かなければいけないときがありますが、だからといって、全く聞く素振りさえもみせないのはどうかと思います。寝たことはないですが、私もたまに授業や礼拝で心が違うところへ行ってしまうことがあるので、こうやってたくさんの人に、ああだこうだ言う資格はないと思いますが、例えば今、こうやってしゃべっていて目の前に見える人、ほとんどが寝ていたら、私はなんでここにいるんだろう、私の価値っていったいなんだろうと思うと思います。話を聞かないということは、その話し手のことをどうでもいいと思っているということで、それは、その人の価値を否定しているということではないでしょうか。こんなに簡単に結びつくことはないですが、はたからみるとそう見えることがあります。人はそれぞれに価値があって無価値な人なんていないのに、それを否定するような行為は相手に対して失礼で、ひどいことだと思います。相手の気持ちを考えることは大切だと思います。

 まだまだ、たくさんの当たり前があると思いますが、三つにとどめておきます。これらの三つのことに共通するのは、どれも「人を思いやる」ということを基本としていることです。世間で常識として扱われるこれらは、ついついないがしろにされがちで、私も含め、多くの人がちゃんとできていないと思います。しかし、人は他者との関わりなしには生きていけません。生きていく上で、誰かがいるからこそ、自分がいるんだということを忘れずに、周りの人を思いやることが大切だと思います。

 目標は、人生の中で次から次へとできて、達成するために日々頑張るというイメージがありますが、すぐに達成できるもの、どう頑張っても達成できないもの、達成できたかどうかが判断できないものといろいろあります。私は修養会で小野先生に言われた「受験という目標を越えたとしても、あなた達英和生には敬神奉仕という人生の目標があって、神さまはそこへあなた達を導いてくださるんだ」という言葉がとても印象に残っています。敬神奉仕のいう「隣人を自分のように愛しなさい」などは、つまりは「人を思いやる」ことだと私は思います。今日、読んでもらった聖句の「御旨にかなう道」は人それぞれ違うかもしれませんが、「人を思いやる」ことは、みんなに共通しているのではないかと思います。

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