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    <title>教員・院生からのメッセージ（大学院）</title>
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    <updated>2015-07-30T08:50:22Z</updated>
    
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    <title>ギリシャ危機の本質を考察することの重要性</title>
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    <published>2015-07-30T08:46:19Z</published>
    <updated>2015-07-30T08:46:19Z</updated>

    <summary>国際協力研究科長 教授　小久保康之 　2015年の上半期は、ギリシャ危機の報道が...</summary>
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        <![CDATA[<p style="text-align: right;"><strong>国際協力研究科長 教授　小久保康之</strong></p>
<p></p>
<p>　2015年の上半期は、ギリシャ危機の報道が日本でも多く見られた。しかし、この危機の本質を理解するための幅広い視野を持ち、国際政治の動向を冷静に見つめることができなければ、日本はまたしても独りよがりの孤立主義に陥るのではないか、と心配になる。「ギリシャ人は怠け者だ。ドイツ人みたいに規律正しく働くべきだ」といった情緒論や、ギリシャがデフォルトした時の経済的影響や単一通貨ユーロの導入自体が経済的に無謀であったというような経済学の議論だけでは限界がある。勿論、24時間動いている世界中のマーケットへの影響も看護できないし、経済問題が国際政治の極めて重要なファクターであることは確かであるが、問題はそこに留まらない。<br />　ギリシャ危機から派生する政治的リスクは計り知れないものがある。ヨーロッパ各国における内政の不安定化、ＥＵ統合によるヨーロッパ再建という歴史的実験への影響、ドイツ脅威論の再燃、ロシアと中国が突きつけている新たな国際政治の動き、アフリカ・中東からヨーロッパに渡ってくる不法難民、イスラム国と世界中に広がるテロ活動、混迷化する中東情勢、米国の世界戦略、等々。それらはすべて連動しており、冷静に対応しなければ、これまでにない不安定な状況が世界に広がる危険を孕んでいる。<br />　バルカン半島発の混乱の再現を避けるために、ユーロ圏の首脳は夜を徹した17時間に渡る会議の末、なんとか当面の危機は回避した。バルカン半島が世界の火薬庫であることをヨーロッパ人は忘れていない。だからこそ、今回の危機は何としてでも抑える必要があった。<br />ＥＵ統合は未知なるプロセスの途上にあり、万能薬ではないし、数々の過ちも犯している。しかし、ヨーロッパが60年以上に渡って構築してきたＥＵという制度が、紆余曲折ありながらもヨーロッパにおける平和の維持に貢献してきたことを認めた上で、客観的にＥＵ・ヨーロッパの動きを分析し、それが国際政治に及ぼす影響を視野に入れた包括的な議論を行い、新しい国際潮流を踏まえて、日本の内外政策を展開しなくてはならない。対岸の火事だ、経済的に日本には影響がない、と言って遠巻きに見ている場合ではないのである。</p>]]>
        
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    <title>道徳授業案「美しいと感じるもの」の授業実践</title>
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    <published>2014-01-07T08:14:23Z</published>
    <updated>2014-01-07T08:14:23Z</updated>

    <summary> 	　「美しいと感じるもの」という道徳授業案をつくった（『東洋英和女学院大学教職...</summary>
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        <![CDATA[<div>
	　「美しいと感じるもの」という道徳授業案をつくった（『東洋英和女学院大学教職課程研究年報　第４号』（2011年度版、2012年12月発行）に掲載。）<br />
	　この道徳授業は、児童・生徒に「美しいと感じるもの」をたずねていく。途中で「美しいと感じるもの」をグループに分けて、さらに他の「美しいと感じるもの」を児童・生徒にたずねていく。<br />
	　ごく単純な授業であるが、暖かい情感が教室に広がる授業である。</div>
<div>
	　現在、和歌山県有田市宮原小学校（藤井英之校長先生）１－６年生（除５年生）、同文成中学校３年生において授業実践がおこなわれている。また大学の宮崎の「道徳教育の理論と実践」の授業において、宮崎による模擬授業が大学生に対して行われている。<br />
	　この道徳授業案は、小学校・中学校、大学、そしておそらく高校でも授業出来ると思われる。<br />
	　児童・生徒の、授業のまとめの感想をいくつか紹介してみよう。<br />
	宮原小学校１年生（授業者：中西朋子先生・児島真周子先生）<br />
	・わたしは、よの中にいっぱいうつくしいものがあるとしりました。あと、わたしは、３こしか見つけられなかったけど、２６人ぜんいんあわせると、おおくなったのがおもしろいし、たのしかったです。<br />
	・おもしろかったし、かんがえるのがむつかしかったです。おもしろかったことは、はるのと、かくのでした。空のものが、きれいのがたくさんあって、すごかったです。オーロラをかいたこがすごいです。<br />
	・きょうのべんきょうは、さいしょきんちょうしたけど、さいごがのほうにきんちょうがなくなったのが、ふしぎだとおもいました。ぼくのかいた花、学校そしてしんぴんのカメラが、みんながわらったのがいいです。○○○くんが「ともだち」ってかいていたのが、べんきょうになりました。<br />
	・みんないっぱいかけていました。わたしは、かいたのは、ゆき、ゆびわ、ほうせき、はなです。みんな空のことがおおかったです。グループのおともだちは、虫などをかいていました。<br />
	・わたしは、きょうのどうとくはじぶんのこころのおべんきょうでした。うつくしいものをさがしてかみにはりました。<br />
	同２年生（授業者：下田喜久恵教頭先生）<br />
	・わたしは、しぜんということばがいいとおもいます。すごくたのしかったです。<br />
	・たねからでるものは、うつくしいんだなと思いました。どうとくのべんきょうをしてよかったです。<br />
	・きょうは、いつものどうとくとちがっていて、すごくたのしかったです。きょうとう先生もいて、すごくたのしかったです。うつくしいとかんじるべん強をしてよかったし、いっぱいうつくしいものもでたから、たのしかったです。うつくしいものは３０こぐらいあってよかったです。じぶんでも、さがしてみたいです。<br />
	同３年生（授業者：中西和美先生・高井敏行先生）<br />
	・今日の授業をして、さいしょ、美しいものはけしきやダイヤモンドや花などだと思っていたけど、よく考えてみると、いっぱいありました。友だちの意見などを聞いていて、人の感情や時なども美しいと感じるものだと、あまり思っていませんでした。とくに、心にのこったのは、一生けんめいがんばっている人や、やさしさ、思いやりなどです。美しいと感じるものを探してみたいです。<br />
	・ぼくが、はじめてしったのは、美しいのは、大切なものやたからものと同じものだと気づきました。ぼくも、美しいものはちょっとしかないと思っていたけど、よく思えばいっぱいあると思いました。しぜんはいいしぜんがあるから、ぼくもいきていると感じるからです。かぜも美しいと思ったのは、みんなのいけんから気づきました。「一生けん命がんばっている人」が、ぼくも同じです。なぜなら、一生けん命がんばることはいいことだからです。ぼくも、見えないもの、そして家やへ屋もだいじです。美しいものは、いっぱいあるんだなと思いました。<br />
	・みんなの意見を聞いて、こんなにいっぱい美しいと感じるものがあって、すごいなと思いました。ぼくの一番美しいと感じるものがあって、みらいです。ぼくは、ぼくの美しいと思うみらいをずっと守っていきたいです。今まで、こんなに美しいものを考えたことがなかったけれど、さがしたら、こんなにあるんだなと思いました。ぼくは、一生、うつくしいものを守っていくぞと心のおくから思っています。<br />
	・わたしは、○○○くんの発表をきいて、虫は美しいんだなあと感じました。なぜなら、わたしは、みんなの発表をきくまでは、虫が美しいのか考えませんでした。でも、○○○くんの発表をきいて、虫は美しいんだなあと思いました。わたしは、美しいと感じるものがたくさんふえました。みんなの意見を聞くまで、あまり思いつきませんでした。でも、みんなの意見を聞いて、こんなに美しいものがあるんだなあと思いました。<br />
	・植物がとてもいろいろあって、いろいろな植物が美くしいと思った。みんな出したいけんで、こんなに美しいものがあるんだなあと思いました。花よめすがたは、なかなか思いつきませんでした。「花よめすがた」と聞いてから、すごく美しいんだなあと思いました。みんな、うつくしいものをいっぱい思いつくんだなあと思いました。<br />
	・一番美しいと感じるものは、あいじょう、やさしさです。わたしは、はじめて知りました。じゅぎょうが始まって、美しいものは何だろうと考えました。でも、みんなのいけんをきいて、わたしはわかりました。自分のいけんのところに、すごくおもいつき、いっぱいかきました。<br />
	同４年生（授業者：福永かおり先生・中田有紀先生）<br />
	・わたしは、みんなしぜんやけしきといろいろ美しいものを見つけられたと思います。わたしが一番美しいと思うものは、３つあります。まずオーロラと音色とそして家族です。わたしはなにが一番美しいかわかってよかったです。<br />
	・ぼくがはじめて美しいものって何だろうと思いました。生き物などは、いままで美しいとおもわなかったけど、いろいろな動物などがうかんできて、とっても美しいことにかんどうしました。小さな命でも、みんなと同じ命をもっていることにかんどうしました。<br />
	・みのまわりにいろいろな美しいものがたくさんあるんだと思いました。みんなしっかり手をあげて、たくさんはっぴょうしていました。ふだん美しいと思わないものも、美しいとでてきた。自分は美しい。<br />
	・美しいものが、こんなに出てきてびっくりした。また、美しいものを見つけたいです。みんな、いろいろちがっておもしろかったのです。美しいものは、一つ一つにかがやきがあるので、それを大切にしていきたいと思いました。<br />
	・美しいと感じるものが、こんなにあるなんて、そうぞう以上でした。こんなに美しいと感じるものがあるなんて、日本は、本当にめぐまれているんだなあと思いました。<br />
	・美しいものをいっぱいきけて、きもちよかった。自分が知っている美しいものもたくさん言えたので、よかった。もう少し自然やわく星につけたしたかったけど、チャイムが鳴ったのでざんねんだった。<br />
	同６年生（授業者：藤原敏明先生）<br />
	・自然や、にじ、宝石、花火など、見てすぐきれいだと感じるものは、分かるけど、感情や人の心は、ふだん、あまり美しいと感じていなかった。今回の授業で、感情や人の心は、とても美しいと感じた。また、空、雲、太陽、月は、いつもみなれているから、美しいと思わなかったけど、今回の授業で、あらためて考えてみると、すごく美しいんだと思った。美しいものは、考えてみると、たくさんあることが分かった。地球には、美しいものがたくさんあって、すごいと思う。<br />
	・私は、こんなにも美しいものや、心、言葉があって、私たちの住んでいるところなどは、きれいなものが、あふれているんだなと思いました。宇宙と言っていた友達の意見が、とても印象に残りました。私は。自分のまわりだけ考えていたのに、その友達は、とても遠くまで考えていて、すごいなと思いました。授業をする前に比べて、今、私は物だけでなく、人の心や言葉までもが美しいことを知りました。それは、私たちも美しいのだなと思いました。<br />
	・この授業で美しいものって、こんなにたくさんあるんだなあと思った。その中で、一番印象に残ったのは「友達の笑顔」です。理由は、みんな物なのに、一番最初からこの言葉を言って、いい言葉だなあと思ったから。授業をする前は、そんなことを考えたこともなかったのに、この授業のおかげで、人の心など、いい言葉を見つけられて、なんかうれしい気持ちになった。美しいものは地球だけではなく、宇宙にもあるということが分かった。美しいものは、すごく身近にあるし、いつも見たりしていることに気づいた。これからも「美しいもの」を見つけていきたいです。<br />
	文成中学校３年生（授業者：小根田真也先生）<br />
	・みんな「自然」や「景色」が多かった。やっぱり自然や景色は美しいのでいいと思った。「人」のグループの、友情やつながりなどの目に見えないものも、とても良いと思った。人と人の良い友情があると美しいと思う。他の季節や畑なども、美しいなと思った。<br />
	・美しいといえば、「物」「景色」「自然」などが先に浮かんでくると思う。「友情」や「笑顔」「仲間」など、人についても出てきたから、ビックリした。すごく、美しいということについて、深く考えているんだなあと思った。美しい物を、どんどん見つけていきたい。<br />
	・僕はあまり美しい物がないと思っていた。けど、人の意見でたくさん出てきた。本当にいっぱいあることが分かった。○○○くんが空といったときに思った。空は快晴の時に見るときれいだと分かった。僕は、ものすごくこの授業がたのしかった。<br />
	・今日の道徳は、すごく楽しくできました。しっかり発表もすることもできました。よかったです。ほとんどの人が発表しました。今日のような授業はすごくいいなと感心しました。またこのようなことをしてみたいです。<br />
	・景色や物など感情が伴わないものには「美しい」といってもごく普通で、伴っていたとしても、人の容姿などの外見などで。○○○くんの「むじゃきさ」ということが美しいといっているのをきいてビックリしました。○○○くんはそういう見方で見ることができる人だなと思い、自分の視野がいかに狭いか実感した授業でした。<br />
	・○○○君の誇りという意見を聞いて、誇りが一番いいなと思った。<br />
	・自分の意見では、自然のことについてばかりでてきたけど、他の人の意見から、人の心やクラスの全体の事も美しいと言う人がいて、なるほどなと思った。他の人の意見をきいて、美しいものについてという題で視野を広げる事が出来る良い授業だと思った。これからの生活でもいかしていきたい。</div>
<div>
	　この授業の意義づけや、よりくわしい展開や、授業にさいしての注意点などは、前掲の宮崎論文「美しいと感じるもの」をご一読ください。</div>
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    <title>「地域研究」、外国を研究することの面白さ</title>
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    <published>2013-09-19T09:01:49Z</published>
    <updated>2013-09-19T09:01:49Z</updated>

    <summary> 	　 	東洋英和の大学院・国際協力研究科は、カリキュラムにおいて大きく三つの学...</summary>
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        <![CDATA[<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　<img alt="望月敏弘.JPG" class="mt-image-right" height="188" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/kyoin/img/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E6%95%8F%E5%BC%98.JPG" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="150" /></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	東洋英和の大学院・国際協力研究科は、カリキュラムにおいて大きく三つの学びに内容が分けられる。一つは「国際協力」領域、二つ目は「国際社会」領域で、毎年、これらの分野を学ぶために入学してくる学生は少なくない。そしてもう一つが、「地域研究」領域である。こちらは、国際協力・国際社会領域に比べて案外知られていないが、本学には、アメリカ、ヨーロッパ、中近東、アフリカ、北東・東南アジア、日本などを対象に、国際政治学会など学問の世界で活躍する、世界各国・各地域の専門家が、規模の大きな大学院にも見劣りしない人員でそろっている。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	因みに、私自身が担当しているのは北東アジア地域（中国・台湾）である。例えば、この２年ほどの間に、「中国の民族政策―1959年の反乱と2008年の騒乱から見たチベット問題」、「改革開放政策の推進と日本の対中経済協力の役割」、「現代中国における青少年犯罪問題―政府の対策を中心として」といった様々なテーマで、３点の修士論文の作成指導にかかわった。これらの修論は、社会人の方が仕事と両立させながら作成した成果であり、留学生がアルバイトをしながら、日本語文献と格闘しつつ到達した成果であった。修論を完成させ、清々しい表情で卒業式を迎えた修了生の姿は、とても印象に残っている。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	さて、本小論では、以下、地域研究領域、すなわち海外の国や地域を学ぶことの楽しさを、私自身の海外での実体験を踏まえて、少しだけご紹介してみたい。大学時代、ヨーロッパ、とくに現代ドイツ研究をしてみたいと漠然と考えていた私は、ゼミ選択の際に出会った一人の中国研究者によって、あまり興味のなかった近・現代中国に関心を転換させた。その指導教授からは、平易に語り書くことの重要性、そして対象を深く考察するためには、同時に対象との距離感を保つことの大切さを教えられた。熱をもって対象にのめり込むことが、当時の中国研究者の多くには当たり前で、難解な文章表現を好み、外見・雰囲気から「いかにも」という特徴があった。こうして、基礎文献の読み込みから、またドイツ語をやめて中国語を遅れて学習することから、中国への学びをスタートさせた。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	学生時代に留学するチャンスを得られなかったが、本学に職を得てすぐに、外務省から現地（上海）での研究・実務の機会を与えられた。1990年代前半、すでに足元のおぼつかなくなった、最高指導者・鄧小平の「南巡講話」というスピーチ一つで、中国全土が開発ラッシュに動き出した時であった。鄧小平が最重要視した上海は、その激動の中心にあった。現在、学会では、1992年が現代中国の大きな転換点となったことがほぼ確認されている。また、日中関係においても、特別な機会に接した。天皇皇后両陛下の訪中であった。日中双方の政府間出先でのやり取り、迎える中国社会の微妙な空気、訪問期間中の出来事など、活字からは絶対に分からない、現地感覚、現場の面白さであった。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	中国では、上海に拠点を置き、中国各地には国内便で出張を繰り返した。現地の生活から、たくさんのことを学んだ。遅ればせながら懸命に学習した中国語（標準語）は、多くの地域においてほとんど通じなかった。言語の多様性への配慮が不十分であった。また、在外公館の中国人スタッフはエリートであるにも関わらず、彼らから「謝罪」表現に出会うことはめったになかった。軽くはない文化ショックを受けた。さらに、交通ルールは聞きしに勝る状況であった。高速道路の真ん中に物売りのおじいさんがいた。かなり幅広い道路を妊婦が普通に信号を無視して渡った。もっとも当惑したのは、在学中の教え子が東洋英和の近況を伝えてくれた手紙である。美しい封筒には、開封された跡が残っていた。一教員ではなく、外務省に移っていたとはいえ、異なる政治体制に違和感を覚えた。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	その一方で、日本社会とは違った「解放感」や「ゆとり」も現地生活で味わうことができた。春節（中国の正月）の花火・爆竹が、走っている私の車に向けて放たれた際は、思わずニコニコしてしまったが、帰宅後、ニュースを見たら、街中で火事が多発していて、火傷した人々の様子が病院から生中継されていた。また、交通違反をしてしまった際に、知人から少し話を聞いていたので、警官に罰金を値切ってみた。関西人でない私には、上手に値切れた自信はないが、これは成功した。少し混沌として、融通無碍の不可思議が、中国社会には明らかに存在していた。現地で、初めて知ったことである。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	いま、日中関係は1972年の国交正常化以来、最悪の状況にあるといわれている。グローバル化が進み、日本と中国の間では空間・時間などの物理的距離は縮まったが、一方で、精神的距離はどうだろうか。言論NPOによる最新の「日中共同世論調査」（2013年8月5日公表）では、相手国によくない印象をもつとの答えが両国民ともに初めて9割を超えた。過去9回の調査で最悪の結果だという。今後、相互の国民間の「こころの距離」はどうしたら縮められるのだろうか。中国側の問題はひとまず別にして、私たち日本人には、相互交流の長さから、隣国・中国についてよく分かっているという無意識の前提はないだろうか。本当に相手のことを理解できているのだろうか。地域研究は、対象地域をトータルに把握しようと試みるアプローチである。他者（中国）を完全には理解することができなくとも、よりよく理解しようとすること、そして、他者と同じ見方にはならないものの、他者の視点から自ら（日本）を見つめ直そうとすることは、日本人の将来にとって不可欠の営為だと思う。地域研究とは、とても大切でかつ面白い学問領域であり、向学心に溢れ、好奇心に富んだ学生を、六本木のキャンパスで今まで同様、静かに待ちたい。</div>
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    <title>Light and Shadow from the Edo Era</title>
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    <published>2013-09-02T09:15:17Z</published>
    <updated>2013-09-02T09:15:17Z</updated>

    <summary><![CDATA[ 	&nbsp; 	&nbsp;&nbsp; Since its establi...]]></summary>
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        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<p style="line-height: 150%; layout-grid-mode: char; mso-layout-grid-align: none">
	<font color="#000000"><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><span style="mso-spacerun: yes">&nbsp;<img alt="Sippel.jpeg" class="mt-image-right" height="231" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/kyoin/img/Sippel.jpeg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; width: 126px; float: right; height: 198px" width="150" /></span></span></font></p>
<p style="line-height: 150%; layout-grid-mode: char; mso-layout-grid-align: none">
	<font color="#000000"><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><span style="mso-spacerun: yes">&nbsp;&nbsp; </span>Since its establishment as a full ministry in 2001, Japan&rsquo;s Ministry of the Environment (MOE) has worked to address long-term global environmental problems through programs that seek actively to establish a society based on positive environmental values and practices. One of its keynote achievements is a</span><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 10.0pt"> series of ambitious laws that aim to create a &ldquo;sound material-cycle society</span><span style="line-height: 150%; font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 10.0pt; mso-ascii-font-family: 'times new roman'; mso-hansi-font-family: 'times new roman'; mso-fareast-font-family: 'ｍｓ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast">循環型社会</span><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 10.0pt">&rdquo; (SMS), based on the three R&rsquo;s of Reduce, Reuse and Recycle. </span></font><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><font color="#000000">A report prepared by MOE in 2008 explains: &ldquo;The nation&rsquo;s new challenge is to take an integrated approach to the establishment of a low-carbon society in order to counter the major problem of global warming, to create a society in harmony with nature that helps conserve ecosystems and will allow people to enjoy the blessings of nature for many years to come, and to establish a SMC Society.&rdquo;</font><a href="https://www.toyoeiwa.ac.jp/cms/mt.cgi?__mode=view&amp;_type=entry&amp;blog_id=44#_ftn1" name="_ftnref1" style="mso-footnote-id: ftn1" title=""><span class="MsoFootnoteReference"><span style="mso-special-character: footnote"><span class="MsoFootnoteReference"><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-fareast-font-family: 'ｍｓ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: en-us; mso-fareast-language: ja; mso-bidi-language: ar-sa"><font color="#0000ff">[1]</font></span></span></span></span></a><font color="#000000"> </font></span><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 10.0pt"><o:p></o:p></span></p>
<p style="line-height: 150%; layout-grid-mode: char; mso-layout-grid-align: none">
	<font color="#000000"><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><span style="mso-spacerun: yes">&nbsp;&nbsp; </span>In its plans to promote a sound material-cycle society, the MOE has derived light from the Edo period (1600-1867). After examining Edo period practices such as the recycling of night soil for use as fertilizer, the strict regulation of waste disposal, the recycling of clothing and bedding, and the careful use of daily use items </span><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 10.0pt">in keeping with the spirit of <i>mottainai, </i><span style="mso-bidi-font-style: italic">t</span></span><span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt">he MOE report concludes: &ldquo;Japanese society in the Edo era is believed to have been a SMC Society based on community activities. People in those days were engaged in social activities involving lower carbon emissions and lived their lives with a deeper awareness of being in harmony with nature. Efforts taken during this period clearly suggest that a sustainable society can be established through the comprehensive promotion of a low-carbon society, a society in harmony with nature and a sound material-cycle society.&rdquo;<o:p></o:p></span></font></p>
<p align="left" class="MsoNormal" style="text-align: left; line-height: 150%; margin: 0mm 0mm 0pt; layout-grid-mode: char; mso-layout-grid-align: none">
	<span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><font color="#000000"><span style="mso-spacerun: yes">&nbsp;&nbsp;&nbsp; </span>But if the Edo era experience offers promises for the 21<sup>st</sup> century, it also offers warnings of environmental problems to come. The Edo era was one of remarkable non-industrial growth, supported by the vigorous development of natural resources&mdash;trees, rocks, and water. In fact, one could say that the Edo era marked the high point of a distinctively Japanese tradition of civil engineering. From the early 17<sup>th</sup> century, government leaders encouraged the clearing of land for agriculture in order to support a growing population. River courses were changed, irrigation channels dug, streams were dredged, and ponds and dams built. Forests were cleared to make room for fields and housing. Cities, too, were the product of radical engineering. In constructing Edo, the world&rsquo;s largest city, experts drained swampy land around the bay and leveled a small mountain to supply soil and rocks to fill the lowland. To promote river transportation north of the city, they directed the Ara River to join the ocean miles from its original mouth. <o:p></o:p></font></span></p>
<p align="left" class="MsoNormal" style="text-align: left; line-height: 150%; margin: 0mm 0mm 0pt; layout-grid-mode: char; mso-layout-grid-align: none">
	<span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><font color="#000000"><span style="mso-spacerun: yes">&nbsp;&nbsp;&nbsp; </span>But as mountainsides, river valleys, and flood plains were converted into farmland and settlements, Japanese timber reserves were depleted and newly developed areas became susceptible to flooding. By the turn of the 18<sup>th</sup> century, floods were reported almost annually along major rivers, including the Tone and Ara Rivers in the Kanto region and the Kiso, Ibi and Nagara in the broad Nobi plain that faces Ise Bay. Although the Tokugawa government did not entirely abandon land development projects, it was forced to shift its attention to the major environmental challenge of the day: flood control and repairs to water damage. Government-authorized public works built specially-designed dykes, widened river channels, and diverted water flows. Yet flood risks to agricultural communities, crops, and even to the great city of Edo did not diminish. Moreover, an explosive growth in gold, silver, and (later) copper mining produced economic reward for its government sponsors but water pollution in some nearby farming communities.<o:p></o:p></font></span></p>
<p align="left" class="MsoNormal" style="text-align: left; line-height: 150%; margin: 0mm 0mm 0pt; layout-grid-mode: char; mso-layout-grid-align: none; tab-stops: 175.5pt">
	<span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><font color="#000000"><span style="mso-spacerun: yes">&nbsp;&nbsp;&nbsp; </span>What warnings does the experience of the Edo era offer? First, given their recent increase in scale and intensity, we are inclined to think of environmental problems as a modern or contemporary issue. Indeed, they are a central focus of scholars who see risk as a central characteristic of contemporary global society. However, environmental risk is much older, predating industrialization and modernization. Although the Edo era may have been sound material-cycle society, it was not pristine. Its physical environment was engineered by humans, who were responsible for a variety of environmental problems, including chronic floods and incipient water pollution.<o:p></o:p></font></span></p>
<p align="left" class="MsoNormal" style="text-align: left; line-height: 150%; margin: 0mm 0mm 0pt; layout-grid-mode: char; mso-layout-grid-align: none; tab-stops: 175.5pt">
	<span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><font color="#000000"><span style="mso-spacerun: yes">&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </span>Second, the Edo era experience points to the difficulty of finding lasting solutions to environmental problems. For example, although the Tokugawa government made continuing and serious efforts at flood disaster control, it cannot be said that it developed a system for managing the environmental risk of flooding on a national level. More importantly, it is hard to argue that its flood control work, however complex and expensive, was effective. While many Edo era people, from government officials and outside experts to ordinary farmers, grasped the relationship between aggressive land development and flood damage, the very fact that floods visited the same areas, year after year, suggests that neither the government nor the local communities were able to address the basic causes. Flood damage continued into the modern era. Moreover, although advances in science and technology as well as management and funding have allowed remarkable progress, the battle against flooding continues in some communities to this day. <o:p></o:p></font></span></p>
<p align="left" class="MsoNormal" style="text-align: left; line-height: 150%; margin: 0mm 0mm 0pt; layout-grid-mode: char; mso-layout-grid-align: none; tab-stops: 175.5pt">
	<span lang="EN-US" style="line-height: 150%; font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><font color="#000000"><span style="mso-spacerun: yes">&nbsp;&nbsp; </span>Finally, we can conclude that the experience of the Edo environmental past casts shadows as well as light on the present. While the scale of contemporary problems such as global warming encourages nostalgia for a simpler past, a focus on their origins can be productive in bringing about constructive change. Clive Pointing concluded his classic <i style="mso-bidi-font-style: normal">Green History of the World</i> with the comment: &ldquo;Past human actions have left contemporary societies with an almost insuperably difficult set of problems to solve.&rdquo;</font><a href="https://www.toyoeiwa.ac.jp/cms/mt.cgi?__mode=view&amp;_type=entry&amp;blog_id=44#_ftn2" name="_ftnref2" style="mso-footnote-id: ftn2" title=""><span class="MsoFootnoteReference"><span style="mso-special-character: footnote"><span class="MsoFootnoteReference"><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-fareast-font-family: 'ｍｓ 明朝'; mso-ansi-language: en-us; mso-fareast-language: ja; mso-bidi-language: ar-sa"><font color="#0000ff">[2]</font></span></span></span></span></a><font color="#000000"> Both as a sound material-cycle society and as a society that produced new environmental problems, the Edo era casts both light and shadow on the environmental heritage of contemporary Japan.<span style="color: red"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<div style="mso-element: footnote-list">
	<br clear="all" />
	<hr align="left" size="1" width="33%" />
	<div id="ftn1" style="mso-element: footnote">
		<p class="MsoFootnoteText" style="margin: 0mm 0mm 0pt">
			<a href="https://www.toyoeiwa.ac.jp/cms/mt.cgi?__mode=view&amp;_type=entry&amp;blog_id=44#_ftnref1" name="_ftn1" style="mso-footnote-id: ftn1" title=""><span class="MsoFootnoteReference"><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><span style="mso-special-character: footnote"><span class="MsoFootnoteReference"><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-fareast-font-family: 'ｍｓ 明朝'; mso-ansi-language: en-us; mso-fareast-language: ja; mso-bidi-language: ar-sa"><font color="#0000ff">[1]</font></span></span></span></span></span></a><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><font color="#000000"> </font></span><span lang="EN-US"><a href="http://www.env.go.jp/en/recycle/smcs/a-rep/2008gs_full.pdf"><span style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><font color="#0000ff">http://www.env.go.jp/en/recycle/smcs/a-rep/2008gs_full.pdf</font></span></a></span><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><o:p></o:p></span></p>
		<p class="MsoFootnoteText" style="margin: 0mm 0mm 0pt">
			<span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
	</div>
	<div id="ftn2" style="mso-element: footnote">
		<p class="MsoFootnoteText" style="margin: 0mm 0mm 0pt">
			<a href="https://www.toyoeiwa.ac.jp/cms/mt.cgi?__mode=view&amp;_type=entry&amp;blog_id=44#_ftnref2" name="_ftn2" style="mso-footnote-id: ftn2" title=""><span class="MsoFootnoteReference"><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"><span style="mso-special-character: footnote"><span class="MsoFootnoteReference"><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-fareast-font-family: 'ｍｓ 明朝'; mso-ansi-language: en-us; mso-fareast-language: ja; mso-bidi-language: ar-sa"><font color="#0000ff">[2]</font></span></span></span></span></span></a><font color="#000000"><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt"> Clive Ponting, <i style="mso-bidi-font-style: normal">A New Green History of the World: </i></span><i style="mso-bidi-font-style: normal"><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 19.0pt; mso-fareast-font-family: 'ｍｓ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-bidi-font-family: arial">The Environment and the Collapse of Great Civilizations</span></i><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt; mso-bidi-font-size: 19.0pt; mso-fareast-font-family: 'ｍｓ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-bidi-font-family: arial">, </span><span lang="EN-US" style="font-family: 'times new roman','serif'; font-size: 12pt">Penguin Books, 2007.<o:p></o:p></span></font></p>
	</div>
</div>
]]>
        
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    <title>デトロイト破綻が意味するもの</title>
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    <published>2013-09-02T09:09:10Z</published>
    <updated>2013-09-02T09:09:10Z</updated>

    <summary><![CDATA[ 	デトロイト破綻が意味するもの 	&nbsp; 	　デトロイト市の連邦破産法第...]]></summary>
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        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<b>デトロイト破綻が意味するもの</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<b>&nbsp;</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　デトロイト市の連邦破産法第九条の適用申請は予想されていたことだった。今年の三月一日、ミシガン州のリック・スナイダー知事がデトロイト市の財政危機を宣言、危機管理人に弁護士のケヴィン・オア氏を指名し、同市の財政再建を検討してきた。だが、同市の財政状況はもはや手の施しようがないほど悪化しており、同危機管理人は七月一六日にスナイダー知事宛に書簡を送り、破産法申請を勧告した。これを受けて知事は一八日に「破産法申請の決定は六〇年に及ぶデトロイト市の衰退の結果である。現状では市民や債権者に対する義務を履行できず、義務を履行する唯一実現可能な道は破産手続きを通して財政の再構築を図ることである」という声明を発表し、破産法申請を決定した。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　デトロイト市の破綻は、戦後のアメリカを支えてきた経済・社会の枠組みのみならず、政治の大きな転換点を意味するかもしれない。同市の破綻は自動車産業への過度の依存と、強力な労組を背景とした年金と医療保険の巨額の負担がもたらした結果であった。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　デトロイト市の財務はどのような状況なのであろうか。同市が抱える債務総額は１８０億㌦に及ぶ宇。市債の償還と利払い、退職した市職員の年金負担と医療費負担が主な内容である。市債の負担軽減は投資家との交渉が必要で、破産手続きを経なければ実現できない。年金減額も組合の抵抗と州憲法の規定で簡単には行えない。また同市の税率は既に州内でも最も高く、人口減少による課税ベースの縮小もあり、増税による歳入増を図ることは絶望的である。逆に税収は98年以降、35％も減っている。来年度の予算では３億㌦を越える赤字が予想されている。まさにスナイダー知事が言うように、デトロイト市にとって残された唯一の選択肢は破産申請だった。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　デトロイト市の財政状況の悪化の最大の要因は人口の継続的な減少である。ピークの50年の人口は約１８５万人だったが、現在は約68万人にまで減っている。さらに特徴的なのは、比較的豊かな白人と若者が大量に流出していることだ。その結果、アフリカ系住民が人口の80％を占めるまでになっている。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　歳入の三分の二が市債関連の支払い、年金、医療費に充当されるため、市民サービルの劣化が顕著になっている。住宅バブルが弾けた影響で廃屋は約七・八万戸もあり、さらに街灯の四〇％は壊れたまま放置されている。それが治安の悪化を招き、昨年の殺人事件は三八六件と過去四〇年で最高を記録、全米二位となっている。犯罪の検挙率はわずか八・七％に過ぎない。警察に通報してもパトカーが到着するまで五八分かかる状況で市の治安を維持するのは難しい。そのうえ警察官と消防士の数は半分に減っている。教育の荒廃も目を覆うほどである。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	こうした状況にさらに拍車を掛けているのが政治的腐敗である。前市長が09年に汚職で逮捕されるなど、同市の政治腐敗は有名である。行政の不効率も重なり、復活のための十分な対策が講じられてこなかった。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　こうしたデトロイト市の荒廃の背景にあるのは自動車産業の衰退である。自動車会社は生産を縮小する一方で、労働賃金が安い南部などに工場を移転してきた。09年のＧＭとクライスラー破産が決定的な打撃となった。雇用調整が行われ、失業が急増した。今年の６月の同市の失業率は18％と、全国水準を大きく上回っている。全国的な景気回復にもかかわらず、同市の雇用情勢に完全の兆しは見えてこない。自動車会社への過剰な依存で、新産業育成で他の都市に遅れを取った。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　デトロイト市の危機は、人口減少に始まり、税収基盤の縮小で都市サービスの低下、犯罪など治安の悪化を招き、それが富裕層を中心とする都市脱出を促し、さらに税収減少を引き起こすという&ldquo;死のスパイラル&rdquo;に陥ったことである。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<b>　</b>デトロイト市の問題は同市に限った問題ではない。人口減少でいえば、セントルイス市の方がより深刻な状況にある。年金債務負担ではニューヨーク市の方が遙かに大きい。デトロイト市が破産申請する直前の７月17日、格付会社ムーディーズ社がシカゴ市の市債格付けを一気に三段階引き下げて「Ａ３」とすると発表した。これは投資適格の最低水準の評価である。緩やかな景気回復が進んでいるにもかかわらず地方政府の財政状況の改善は一向に進んでいないのである。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　地方財政の研究機関センター・フォー・バジェット・アンド・ポリシー・プライオリティーズの調査（12年６月）では、今年度は三一州が財政赤字を記録し、総額は５５０億㌦に達すると分析している。歳入は増え始めたが、リーマンショック以前の水準にまで回復していない。こうした中で、各州は赤字対策に取り組んでいる。たとえばカリフォルニア州は過去10年連続で財政赤字を計上、今年度の赤字額は２００億㌦に達すると予想されているが、昨年11月に「提案30号」が住民投票で成立し、富裕層の所得税率が大幅に引き上げられ、最高税率は29％となっている。それでも同州が財政危機を克服できるかどうか疑わしい。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	10年以降、破産法第九条に申請した市の数は全部で38市に達している。昨年、申請したのはカリフォルニア州のストックトン市とマンモス・レイク市（申請は拒否）、サン・バーナーディノ市の三市である。今年に入ってからは、デトロイト市だけであるが、景気回復に手間取れば、破産する都市がさらにでてくると予想される。アレント・フォックス社のデビッド・デュブロー氏は「近い将来、中規模の都市で破産が続出する可能性がある」と指摘している（州政府協議会会報『フィスカル・ノート』２０１３年１月号）。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<b>人口移動と都市の盛衰</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<b>&nbsp;</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　『フォーブス』誌が「アメリカで最も惨めな市トップ一〇位」と題する記事を掲載している（<span>13年2月21日号）。それによれば、一</span>位はデトロイト市で、続いて同じミシガン州のフリント市、イリノイ州のロックフォード市、シカゴ市、カリフォルニア州のモデスト市、バレーオ市、ミシガン州のウォーレン市、カリフォルニア州のストックトン市、イリノイ州のレイク・カウンティ市、そして一〇位がニューヨーク市である。特徴的なのは、「惨めな市」はミシガン州、イリノイ州が多いことだ。こうした市は&ldquo;ダスト・ベルト&rdquo;と呼ばれ地域に集中していることだ。こうした都市では雇用の減少も見られる。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　「国勢調査」によると、この一年間で最も人口が増加した市は、サンマルコス市（テキサス州）、サウス・ジョーダン市（ユタ州）、ミッドランド市（テキサス州）、シダー・パーク市（テキサス州）、クラークスヴィル市（テネシー州）、アルファレッタ市（ジョージア州）、ジョージタウン市（テキサス州）、アーバイン市（カリフォルニア州）、バックアイ・タウン市（アリゾナ州）などである。特徴的なのはトップ一五位の市のうち８市がテキサス州にあることだ。その他にも同州には拡大を続けるヒューストン市、サン・アントニオ市、オースティン市、ダラス市、フォート・ワース市がある。&ldquo;ダスト・ベルト&rdquo;に対して、これらの市は&ldquo;サン・ベルト&rdquo;に属している。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　07年以降、最も多くの雇用を創出した州は、テキサス州、ノースダコタ州、ルイジアナ州、オクラホマ州である。テキサス州はニューヨーク州の５倍の雇用を創出している。ミシガン州とオハイオ州は最も雇用喪失が大きかった。人口だけでなく、雇用も&ldquo;ダスト・ベルト&rdquo;から&ldquo;サン・ベルト&rdquo;に移っている。人口増加地域の特徴は、エネルギー関連や農産物などの一次産品産業が栄えている州であることだ。そのため、こうした地域は&ldquo;エネルギー・コリダー（回廊）&rdquo;と呼ばれている。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　南部の州が多くの人と企業を引きつけているのは税制の影響もある。たとえば、テキサス州、サウス・ダコタ州やネバダ州では所得税あるいは法人税はない。また、東部の多くの都市が犯罪など治安問題や教育の荒廃といった問題を抱えているのに対して、南部の都市には深刻な治安問題がない。教育レベルも高く、子供の教育を心配する専門職の人々を引きつけている。南部では、たとえばニューメキシコ州サンタフェ市に住居を構え、普段は電子メールのやりとりを通して仕事をし、定期的にニューヨークやワシントンに出掛けるという生活パターンが一般化している。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　こうした人口移動は最近始まったものではない。企業の南部進出は既に60年代から始まっている。東部に比べると労働賃金の安さが企業進出を促した。さらに南部の州では「労働権法」を認めている州が多いことで、組合問題に悩む企業は南部へ工場を移転するようになった。アメリカではニューディール政策の一環として成立した「ワーグナー法」で、労働者を守るために労働者は強制的に組合に所属さなければならないクローズド・ショップ制が導入された。だが、戦後、保守派の巻き返しで「タフト・ハートレイ法」が成立し、組合に加入しなくても良いオープン・ショップ制が認められた。現在、「労働権法」を認めている州は<span>25州ある。今年の１月にミシガ</span>ン州でも同法は成立したが、大半は南部に集中している。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　企業が南部に移るにつれて労働組合加盟率が顕著に低下してきた。<span>12年の組合参加率は11.3％と戦後最低を記録している。さらに</span>特徴的なのは、公務員労組が組合加盟者の半分以上を占めていることだ。言い換えれば、民間企業だけの参加率はさらに低いといえる。また労組参加率の低下にサービス産業化がある。世界最大のスーパーであるウォールマートーには組合はない。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　組合参加率を州別に見れば、12年の統計では、テキサス州が６．８％、ノースダコタ州は８・２％である。これとは対照的に、組合の強いイリノイ州は１５・５％、オハイオ州は１３・９％と全国平均を上回る加盟率を維持している。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<b>人口移動と保守化の関係</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　こうした人口動態の変化は経済だけでなく、政治・社会に対しても大きな影響を及ぼしている。組合の影響力の衰退は、民主党の支持基盤の喪失を意味する。民主党を支えているのは、民間の製造企業の組合ではなく公務員労組に変わりつつある。さらに労組の影響力の衰退で共和党の組合攻撃が加速化している。昨年、ウィスコンシン州の州議会で共和党議員は公務員労組の団体交渉権を制約する動きに出て、深刻な対立を招いた。そうした動きは各州に波及しており、今後、労働権法を成立させている州も増えてこよう。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	こうした動きに対して労組や民主党は抵抗を試みている。<span>11年にボーイング社が工場をワシントン州から労働権を認めているサウスカロライナ州に移設しようとしたが、労組は移転阻止を図り、労働関係委員会に仲裁が持</span>ち込まれる事件が起こった。ニューディール政策以降作り上げられた&ldquo;リベラルな労働制度&rdquo;が根本から見直される事態も予想される。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　さらに南部は伝統的に保守的な地域である。選挙結果を見れば明らかなように、南部は共和党の強力な支持基盤となっている。大統領選挙だけでなく、議会選挙にも大きな影響を与えている。アメリカでは<span>10年毎に行われる国勢調査に基づいて下院議員の各州への割り当てを変更することになっている。南部への人口集中は、南部から選出される保守的な下院議員の数が増えることを意味する。</span></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　多くの市は組合の力を背景に潤沢な年金や医療保険給付といった仕組みを作り上げてきた。だが、その仕組みはもはや維持できない状況になっている。産業界においてネオリベラリズム的思想が企業行動に大きな影響を与えたように、地方自治体でも競争の導入とサービスの民営化の動きが出てきている。また従来以上に地方財政の均衡化を求める声が強くなっている。ニューディール政策をベースに出来上がった経済的、政治的仕組みが確実に変わりつつある。デトロイト市の破綻は、その象徴ともいえる。</div>
]]>
        
    </content>
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    <title>「ビッグデータ」それは現代の錬金術？</title>
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    <published>2013-06-25T09:16:35Z</published>
    <updated>2013-06-25T09:16:35Z</updated>

    <summary> 	　アベノミクスの一つに「ビッグデータを10兆円市場に」という戦略がある。これ...</summary>
    <author>
        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　アベノミクスの一つに「ビッグデータを10兆円市場に」という戦略がある。これは、ITの発展と共に大量のデータを保存出来るようになり、このデータを分析すると今まで気がつかなかったことがわかり、今後の行動への指針が立てられるというものだ。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<strong>「ビッグデータ」</strong><b>とは</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　従来は、仮説の検証や将来の予測などをするときに、仮説に基づいて必要な調査を行ってデータを集め、分析して、仮説の正当性を検証してきた。ところが、ITの発達と共に、社会生活の中で大量のデータが発生し、当初の目的が終わっても、そのデータを保存する環境が作れるようになった（コンピュータのデータ保存容量が増えた）。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	たとえば、コンビニで見られるPOSシステムは、大量のデータを保有している。ITを使用しないころは、伝票で処理し物流が完了したら廃棄していた。今は、どの店で何時に何が売れているかをセンターは把握しており、その地域で急に雨が降れば、店員が傘の配送をセンターに発注しなくても、たちどころに傘が到着し売り上げが伸びる。伝票の内容はデジタルで保存する。POSでは、各店の、その日の天気、気温、購入者の性別・年齢なども入力して、売れ筋商品を見極め、狭い店舗に売れ筋の商品を陳列する。最近は、カードを見せると商品が安くなったり、ポイントをつけたりしている店がある。カードは、その人の正確な年齢や住所、購入金や購入頻度わかるので、店にとっても、客層をつかむためにはとても便利な方法である。この結果、消費者も店もwin-winの関係となり、カードを使うお客が目に付く。このように、ビッグデータを分析することによって、その地域にあった品物や、他店と区別して特徴のある品物の陳列の工夫ができるようになる。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	そのほかにも、荷物につけた<a href="http://100.yahoo.co.jp/detail/IC%E3%82%BF%E3%82%B0/"><span style="color: windowtext; text-decoration: none; text-underline: none">IC<span style="color: windowtext; text-decoration: none; text-underline: none">タグ</span></span></a>の情報や<a href="http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%90%BA%E5%B8%AF%E9%9B%BB%E8%A9%B1/"><span style="color: windowtext; text-decoration: none; text-underline: none"><span>携帯電話</span></span></a>の<a href="http://100.yahoo.co.jp/detail/GPS/"><span style="color: windowtext; text-decoration: none; text-underline: none">GPS</span></a>が発するログファイル、<a href="http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%86%99%E7%9C%9F/"><span style="color: windowtext; text-decoration: none; text-underline: none"><span>写真</span></span></a>やビデオのデジタルデータ、オンラインショッピングの売買履歴レコードなど、さまざまな種類のデータがつくられ、ネットワークを介して次々と蓄積されていく。このように、ビッグデータは、社会の中で記録されているさまざまな情報をデータとして集めたものである。通常、データの件数は巨大であり、データの構造が決まっているわけではない。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<strong>「ビッグデータ」の分析</strong></div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	「ビッグデータ」は、分析する目的が先にあるのではなく、情報があるから、使うかどうかは別として、まず保存しておく事から始まる。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	次に「日曜日にスーパーに買い物に来るお父さんのために有効な品揃えは何か」を予測するときには、「ビッグデータ」の中から、「購入者の性別・年齢」、「購入品の種類」、「購入額」だけでなく、「天気」、「マイカーを持っているか」、「そのほかでどのような購入をしているか」など使えそうなあらゆる項目を探してきて分析をかける。その結果、お父さんのプロファイリングができ、商品陳列が的確となる。注意しなければいけないのは、分析結果は、「雨の日は傘が売れる」といった当り前のことが大部分である。時には「ビールと紙おむつを同時に買うお客が多い」という分析結果から、ビールと紙おむつを並べて陳列する」といった現実では奇妙な結果も混じるし、「風は吹けば桶屋が儲かる」といった因果関係が出てくることもある。分析結果は、鵜呑みにしないで、有効なのかどうか十分な検討が必要だ。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	分析手法は、統計学で通常使われている回帰分析や因子分析のほか、ニューラルネットワーク、決定木、コレスポンデンス分析、コンジョイント分析など多様な手法を活用し、データマイニングと呼ばれている。どのデータにどの分析をかければうまく説明出来るかは、データの分野によって異なり、まだまだ分析されていないデータが大量に眠っているのが現状である。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<strong>成長戦略に向けて</strong></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　今年(2013年)4月には、日立製作所と博報堂が、「マーケット・インテリジェンス・ラボ」を立ち上げ、「ビッグデータ」の解析事業で提携し、販売促進策などの助言まで一貫して請け負うサービスが始まった。新サービスでは、まず顧客企業が季節や地域帯別の売上高、来店人数、仕入れ価格などの個別データを提供するし、解析担当の日立は顧客企業の製品名や社名と関連する言葉を交流サイト（SNS）から集計する。博報堂は独自に蓄えたノウハウを加味して、顧客企業に効果的な新製品開発やマーケティング手法を提案する。料金も中堅・中小企業が利用できる水準に抑え、3年後に300億円程度の売り上げを目指している<sup><span><span><span><span style="font-size: 10.5pt">[<span style="font-size: 10.5pt">１</span><span style="font-size: 10.5pt">]</span></span></span></span></span></sup>。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	全省庁・自治体のデータの公開</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	　国勢調査や経済センサスをはじめとして、税金を使って大量の調査が行われている。1回の国勢調査の結果だけでも本棚の2-3段を占拠するほどの報告書が作成されるが、元のデータを十分に活用しているわけではない。男女別・地域別・年齢別・収入階層別のクロス表などという詳細な表は作られていない。詳細なメッシュデータは、マーケティングには欠くことのできないものである。</div>
<div style="text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	統計、道路交通、気象など省庁・自治体の持つ「ビッグデータ」を開放して民間も活用する「オープンデータ」は2013年から本格的に動き始めた。役所情報の著作権をフリーにできるのか、プライバシーは守られるのか、公開するとなるとプライバシー秘匿が心配になり調査の捕捉率が下がらないかなど、民間の活用が可能になるまでには高いハードルがあるが是非クリアしてほしい。「ビックデータ」は宝の山だから。</div>
<div>
	<br clear="all" />
	<hr align="left" size="1" width="33%" />
	<div id="edn1">
		<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
			<sub><sup><span><span><span><span style="font-size: 10.5pt">[<span style="font-size: 10.5pt">１</span><span style="font-size: 10.5pt">]</span></span></span></span></span></sup></sub> 日本経済新聞　2013.1.13</div>
	</div>
</div>
]]>
        
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    <title>国際社会における日本の「立ち位置」の変化と開発援助のあり方</title>
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    <published>2013-05-17T10:24:56Z</published>
    <updated>2013-05-17T10:24:56Z</updated>

    <summary><![CDATA[ 	&nbsp; 	　1990年代の終わりに私は学生として東南アジアのタイに留学...]]></summary>
    <author>
        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div>
	&nbsp;<a href="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/assets_c/2013/05/石井＝市場で売り子（２）-thumb-2048x1536-3514.jpg"><img alt="ishii01.JPGのサムネール画像" class="mt-image-right" height="150" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/assets_c/2013/05/石井＝市場で売り子（２）-thumb-2048x1536-3514-thumb-200x150-3515.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="200" /></a></div>
<div>
	　1990年代の終わりに私は学生として東南アジアのタイに留学し、それから「一回り」した2010年、再びタイの大学に客員研究員として籍を置いて長期滞在をしました。タイで実感したその12年間の変化は、何と劇的なことだったでしょうか――そして同時に気付いたのは、「同じこの12年間、日本ではほとんど何も変わっていない」という事実でした。1990年代の終わりに私がタイに留学したころ、タイの女子大生たちはみんなサラサラの黒髪を肩まで垂らし、化粧をしない素顔に白いブラウスに<ruby><span><span>踝</span><rp>(</rp><rt>くるぶし</rt><rp>)</rp></span></ruby><span>まで隠れる長さの黒いロングスカートの制服を着<span>、楚々とした佇まいで行き過ぎていきます<span>。<span>放課後に<span>は<span>、<span>大学生たちは<span>近所の市場の二階の食堂街に集まり、熱帯の空気の中、扇風機の風を浴びながら<span>ビニール袋に入った青<span>マンゴーに唐辛子とザラメ砂糖<span>をつけて食べる&ldquo;おやつ&rdquo;をみんなで分け合<span>って、飽きることなくおしゃべりをしていたものでした。<span>熱帯特有の熱気と学生たちの意気込みは、当時の日本の大学生からは眩しく見えたものでした。<span>その頃<span>は、<span>日本人留学生が持っているノート型パソコンやカメラは、それを持っているだけで未来から来たように<span>一種畏敬の念を持って見られ<span>、多くの日本人がいい気になったものでした。<span>ただ<span>当時は大学の女子トイレで化粧直しをしていると、<span>後ろを通る学生たちの自然が冷たく、<span>「化粧をするのなんてそういう職業の女だけだから。やめ<span>た方がいいわ<span>よ<span>」と忠告をさ<span>れたものでしたが&hellip;。<span>当時は、タイ人に生まれるか日本人に生まれるかが、その人の人生を決定すると思われていました。タイ人に生まれれば、都会のお金持ちの家に生まれても、放課後に<span>大学生が<span>遊ぶ「インフラ」が無かったのですから。<a href="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/kyoin/img/%E7%9F%B3%E4%BA%95%EF%BC%9D%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%A7%E5%A3%B2%E3%82%8A%E5%AD%90%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%89.JPG"><img alt="ishii02.JPG" class="mt-image-right" height="150" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/assets_c/2013/05/石井＝市場で売り子（１）-thumb-200x150-3513.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="200" /></a></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></div>
<div>
	　しかし、その同じ大学の同じ女子トイレに、12年後の2010年には「禁煙」の二文字が貼ってありました。タイ人の消費・行動パターンが一変したのです。同じ大学の同じキャンパスに、今や日本の女子大生よりよほど思い切った化粧の女子学生たちが、染めた髪をくるくると巻き髪にして、制服のスカートをこれでもかとばかりに短くしてキャンパスを颯爽と歩いています。そこここの学生はあからさまなブランドのロゴが散りばめられたバックを持ち、日本の学生より最新鋭の型のパソコンや電話を持っていたりします。かつての「市場とその2階」はなくなり、学生たちはかつて外貨を持つ観光客だけが通った通りのバーに繰り出し、エアコンの効いたバーで日本人学生と何ら変わらぬ娯楽を享受するようになりました。もはや日本人留学生がノート型パソコンを持っているからと言って、畏敬の念で見られることもなくなりました。「韓国人や中国人の留学生と違って、日本人の女の子たちって、地味よね」と言われるようになりました。</div>
<div>
	　日本が変わらないでいるこの20年間、東南アジア諸国はすっかり発展し、かつてのような「先進国に生まれたことが特権」ではなくなりました。かつての「途上国」の豊かな階層に生まれたほうが、国内格差の進んだ「先進国」の下層社会に生まれるより、ずっと豊かな物質的人生を享受する時代となったのです。このような時代の変化の中で、相対的な日本の地位はアジア域内でぐんぐんと下がり、日本人と東南アジア人の関係性は、外から見れば日本人が考えているよりはるかに大きく変わりました。つまり日本と日本人であることの価値が下がったのです。<a href="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/kyoin/img/%E7%9F%B3%E4%BA%95%EF%BC%9D%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%BA%97%E5%93%A1%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8.JPG"><img alt="ishii03.JPG" class="mt-image-right" height="150" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/assets_c/2013/05/石井＝ムスリムの店員さんと-thumb-200x150-3512.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="200" /></a></div>
<div>
	　このような時代に、日本は誰を援助し、何を目的として援助をするのでしょうか。援助先国の在り方も日本の在り方も、開発援助が華やかだった1980年代とは全く異なっているという前提の上で、新たな開発援助の在り方を見据える必要がありそうです。</div>
]]>
        
    </content>
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    <title>顔の見えないテロリズム</title>
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    <published>2013-04-25T09:39:35Z</published>
    <updated>2013-04-25T09:39:35Z</updated>

    <summary> 	はじめに 	　去る4月15日に米国ボストンで発生した連続爆破事件は、ロシア南...</summary>
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        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div>
	はじめに<img alt="mochizuki_katsuya.jpg" class="mt-image-right" height="203" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/kyoin/img/mochizuki_katsuya.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="229" /></div>
<div>
	　去る4月15日に米国ボストンで発生した連続爆破事件は、ロシア南部出身で滞米10年になるチェチェン人兄弟が引き起こしたもの、と報道されている。オバマ政権による威信をかけた捜査の結果、数日のうちに容疑者たちは逮捕され、事件に対する関心は彼らの犯行の意図、さらには事件の背景に移りつつある。ボストン・マラソンというイベントを狙った犯行の性格、爆弾製造を含めた破壊活動としての手法などの点から、事件発生の当初にはテロ組織の犯行という見方があった。それどころか、拙速に今回の事件をアルカーイダと結びつけるニュースが流れたことも記憶に新しい。</div>
<div>
	　こうした報道も9・11以降の米国政府の姿勢からすれば、うべなるものとせざるを得まい。テロリストに対する断固たる姿勢は、もはや米国の政府とその市民だけのものではなく、世界にあまねく拡がっているからである。あらゆるものを「水に流す」ことが常の日本社会ですら、無差別殺人や破壊活動を伴うテロリズムに対する認識は大きく変わりつつあると言って差し支えあるまい。恐怖にすくむのではなく、これに立ち向かうという姿勢、「テロとの戦い」の意識が醸成されている。</div>
<div>
	　しかしその一方で、初期報道における問題もあったことは上述のとおりである。事件の原因や背景はもちろん、事態の展開が見えづらいものほど、その様相をいち早く伝えることが求められる。なぜなら、得体の知れない犯人や犯行の性格を示唆することが、人びとの不安を減じることにつながるからであり、ジャーナリストや報道機関としても事件の解説を避けることはできない。取材が十分ではなく、説明の材料に乏しい段階では、様相の似通った事件や犯行からの類推で語らざるを得ないのであろう。</div>
<div>
	　そもそもテロリズムの本質とは、人びとの恐怖心を掻き立てることにあり、殺傷や破壊はその手段である。テロリストのねらいは、事件をセンセーショナルで大きなものとするだけではなく、自らの存在を理解しにくいものとしておく点にもある。したがって、被害が甚大で、犯人像が見えてこない事案ほど、テロ事件としてのインパクトは大きいことになる。人間の安全保障に関心を抱く者の一人として、こうした事案に関与する主体について、自らの研究フィールドである西アフリカの事例から考えてみたい。</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div>
	地域不安定化の様相</div>
<div>
	　アフリカ地域に生じた政治的不安定化は、国際関係論では冷戦後における地域紛争の頻発という文脈で、また政治経済学では経済構造調整や「民主化」による国家とその権力のゆらぎといった視点から論じられてきた。西アフリカ諸国の動向をみると、リベリアやシエラレオネ、さらにコートディヴォワールといった紛争国の情勢が安定化に向かう一方、依然として軍事クーデタによる政権転覆も発生しており、たとえばマリでは反政府武装勢力が主要都市を占拠する事態に至るなど、不安定化の様相は払拭されていない。</div>
<div>
	　こうした事態を招来している要素のなかで西アフリカ各国の政府にとって脅威となっているもののひとつがテロリズムなのである。1980年代以来の経済構造調整の下で拡がった格差により利権の争奪は激化し、1990年代からの「民主化」がもたらした選挙サイクルは社会大での政争を周期的にもたらしてきた。かくして人びとは経済的、政治的な不満を募らせ、政府への批判を強め、ときに反抗すら試みている。労働者によるストライキ、地域住民の抗議運動など、政府に対する異議申し立てとしての大衆行動ばかりではなく、マリのように武装集団が政府に力で対抗する動きすら出てきた。中央政府の警察・治安能力に挑戦する動きのなかでも、テロリズムは最も深刻な問題と言えるだろう。</div>
<div>
	　「テロとの戦い」が本格化する中、米国はじめ英仏ほか関係国は西アフリカ諸国のテロ対策にも支援の手を差しのべた。植民地宗主国たる英仏両国は、それぞれ旧英領、旧仏領諸国に軍事援助を行ってきており、米国もまた親米政権を中心に技術やノウハウの移転を試みている。石油ほか資源部門をはじめとするビジネスの治安対策には民間セキュリティ会社も要員を派遣しており、こうした形での関与も考慮すれば、西アフリカ諸国といえどもテロ対策に手を拱いていたわけではない。</div>
<div>
	　それにもかかわらず西アフリカを&ldquo;テロの温床&rdquo;と見る動きがあったことも事実である。ウサマ・ビンラーデンの存命中、アルカーイダの活動が中東地域以外にも拡散したとの見方が支配的となり、西アフリカのムスリム住民がその受け皿になると考えられていた。内陸の辺境地域にテロリストの訓練キャンプがあるという噂が出たことも、一度や二度ではない。各国政府の国境管理の甘さ、そこを狙った違法な武器流通などが、この噂をまことしやかなものとしていたのである。</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div>
	ナイジェリアとテロ</div>
<div>
	　西アフリカにおける&ldquo;テロの温床&rdquo;とみなされた国のひとつがナイジェリアであった。アフリカ第一の人口大国、250を超える言語グループからなる多民族国家であり、また石油や天然ガスの産出国として新興経済とも目され、人びとの活発な経済活動でも知られている。長く軍政下にあったが、1999年に民政移管を達成して「民主化」の面でも一定の成果を上げてきた。とは言え、選挙をめぐる暴力が皆無というわけではなく、民政移管後には大臣経験者の殺害といった事件にも発展している。多民族社会の常として、異なった社会背景をもつ住民同士の反目・対立も目立つ。とくに石油産出地域では住民による権利要求運動が激しく、これが昂じて武装集団化した青年組織も少なくない。紛争の種が尽きない国家と言ってよい。</div>
<div>
	　近年、ナイジェリア連邦政府が苦慮している問題のひとつは、同国北部で頻発している正体不明の武装集団による銃撃事件や爆破事件である。2009年頃から、北東部ボルノ州の州都マイドゥグリはじめ北部の主要都市で、治安部隊との銃撃戦、警察など公共施設やキリスト教会の爆破といった事件が目立ち始めた。とくに国際社会の耳目を集めたのは、2011年8月に首都アブジャに所在する国連オフィスで発生した爆破事件であり、日本のメディアも外電として伝えている。また2012年4月には、首都と北部の都市カドゥナの2ヶ所で主要全国紙の事務所が連続爆破されたほか、北部の大学内でも銃や手製爆弾による襲撃事件が発生した。その後も頻々と事件が続いているものの、容疑者やその背景については謎ばかりである。</div>
<div>
	　このうち北部の中心都市カノの大学で発生した事件について、日本のメディアの1つは2012年4月29日付けの記事で「ナイジェリアで大学襲撃、約20人死亡、礼拝中に銃や手製爆弾」というヘッドラインを付して概容を伝えた上、次のように報じている。「犯行声明は出ていないが、イスラム過激派ボコ・ハラムによる襲撃の可能性がある。＜中略＞ボコ・ハラムは現地の言葉で「西洋の教育は罪」を意味し、全土にシャリア（イスラム法）の導入を要求。国際テロ組織アルカイダとの連携も指摘され、キリスト教会や治安当局などへの攻撃を繰り返している。」<a href="https://www.toyoeiwa.ac.jp/cms/mt.cgi?__mode=view&amp;_type=entry&amp;blog_id=44#_edn1" name="_ednref1" title=""><span><span><span><font color="#0000ff"><span>[１]</span></font></span></span></span></a></div>
<div>
	　この記事の中で「ボコ・ハラム」と呼ばれている組織が、ナイジェリア北部で続発している銃撃事件や爆破事件の実行犯と見なされている。一連の事件をめぐって、この組織に関する報道が幾つも出てきており、たとえばBBC Newsのウェブサイトには2012年1月11日付けで「ナイジェリアのイスラーム主義組織ボコ・ハラムとは何者か？」をタイトルにした解説記事が掲載されている<a href="https://www.toyoeiwa.ac.jp/cms/mt.cgi?__mode=view&amp;_type=entry&amp;blog_id=44#_edn2" name="_ednref2" title=""><span><span><span><font color="#0000ff"><font size="3"><span>[２]</span></font></font></span></span></span></a>。それによれば、この組織のアラビア語の名称はJama&rsquo;atu Ahlis Sunna Lidda&rsquo;awati wal-Jihad で、預言者の教えとジハードの宣教を行う人びと、といった意味になる。組織が拠点を置くとされるナイジェリア北東部で広く話されているハウサ語による通称は「ボコ・ハラム（Boko Haram）」で、イスラーム教徒が西洋社会の政治・社会活動に関わることへの禁忌を示唆することから、上述の記事にあるような「西洋の教育は罪」といった意味合いもあるようだ。</div>
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	&nbsp;</div>
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	テロリズムの背景</div>
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	　「ボコ・ハラム」については、メディアばかりでなく研究者も関心を抱き始めており、関連情報を整理しつつ、その活動の背景や組織について考察を行っている。まず第一に、ナイジェリアをめぐる国際環境として、同国北部が紛争基調のニジェールやチャドと近接していること、さらに両国の背後に位置している国々、マリでは反政府武装闘争が続き、リビアでは国内紛争の末に政権が崩壊に至ったことなども視野に入れて、それらの国々からの武器の流れと組織の武装化の関連といったものが想定されている。</div>
<div>
	　次にナイジェリア国内の政治的文脈としては、とりわけ1999年の民政移管後に顕著となった宗教の政治化が指摘されている。とりわけ北部諸州の民選知事たちが、ムスリム社会の秩序の引き締めといった名目で、シャリーア、とくに厳しい刑罰を伴うイスラーム刑法典を施行したことが、人びとの不安を掻き立てたばかりではなく、原理主義者ほかイスラーム主義を奉ずる人びとの反発を買っているとみる。そこに州知事をはじめとする政治家たちによる、イスラームを隠れ蓑にした政治的操作が垣間見えるからであろうか。</div>
<div>
	　さらに、ナイジェリアに拡がる社会的亀裂が指摘されている。ナイジェリア経済が成長を遂げている一方で、階層間、地域間の経済格差はいっそう拡大しており、とくに北部住民の貧困は深刻さを増している。困窮状態から脱し、事態を打開する道筋が見えないために、人びとのあいだの不平不満はいっそう昂まっている。とりわけ青年層は不満の捌け口を暴力に求めることがままあり、「ボコ・ハラム」の破壊活動にも結びつきかねないという見立てである。</div>
<div>
	　上述した説明は、いずれも事件の遠因や背景としては納得できるものであり、ナイジェリア北部に「ボコ・ハラム」を生み出す土壌があったことは分かる。また、ムスリム社会が抱える問題、イスラームをめぐるポリティクスというものも見えてくる。しかしながら、それらとテロリズムを直接的に結びつけるわけにはゆくまい。ナイジェリアでは同様の経済的、社会的、政治的文脈でさまざまな紛争や事件が生起しており、それらと「ボコ・ハラム」が関わる事件との差異を理解するためには、やはり組織やその構成員の特徴を明らかにする必要があるだろう。</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div>
	おわりに</div>
<div>
	　「ボコ・ハラム」の出自や、武装化に至る経緯なども解明されつつあり、創始者とされる人物や、その死後に組織を引き継いだとされる指導者についても部分的には明らかになっている。とは言え、現指導者がメディアに姿をさらしたのはインターネット動画だけであり、現段階で直接の接触ができているのも限られたジャーナリストのみとされている。そもそも「ボコ・ハラム」に組織としての実体があるのか、あるいは複数の組織のネットワークなのか、はたまたヴァーチャルな存在に過ぎないのか。それすらも把握できておらず、いまだに実体が分からないために、人びとはこれからも暴力に脅え、ナイジェリア連邦政府や各州政府も引き続き対処に苦慮することになろう。</div>
<div>
	　世界各地で発生するテロ事件について、各国治安当局は「テロとの戦い」を掲げて首謀者やその組織的背景の解明に邁進してきた。想定されていたテロの主体とはアルカーイダのようなテロ組織であり、これを叩き、そのネットワークを断ち切ることに主眼が置かれたのである。ところが近年の傾向として、外からやってくるのではなく内から生じてくるテロ、すなわち「ホームグロウン（home grown）」の増加が顕著になりつつある。われわれが真に見据えるべきなのは、テロリストの顔ではなく、彼らをテロリズムに駆り立てた社会がもつ別の顔なのかもしれない。</div>
<div>
	<br clear="all" />
	<hr align="left" size="1" width="33%" />
	<div id="edn1">
		<div>
			<span><span><span><font color="#0000ff"><font size="3"><span>注</span></font></font></span></span></span></div>
		<div>
			<span><span><span><font color="#0000ff"><font size="3"><span>[１]</span></font></font></span></span></span> http://sankei.jp.msn.com/world/print/120429/mds12402920370007-c.htm 、2012年9月4日閲覧。</div>
	</div>
	<div id="edn2">
		<div>
			<span><span><span><font color="#0000ff"><font size="3"><span>[２]</span></font></font></span></span></span> http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-13809501?print=true、2012年9月4日閲覧。</div>
	</div>
</div>
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    <title>「アラブの春」再考（3）</title>
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    <published>2013-03-05T07:29:30Z</published>
    <updated>2013-03-05T07:29:30Z</updated>

    <summary> 	　前回までに指摘した「アラブの春」の各国内政上ないし国内社会的な攪乱要因は、...</summary>
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        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div>
	<img alt="池田先生.jpgのサムネール画像" class="mt-image-right" height="141" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/assets_c/2012/12/池田先生-thumb-140x141-3182.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="140" />　前回までに指摘した「アラブの春」の各国内政上ないし国内社会的な攪乱要因は、中東地域に固有のアイデンティティ政治状況によってさらに拡幅され、域内の国際関係に波及する。汎アラブ意識や汎イスラーム意識といった<span><ruby><span><span>超</span><rp>(</rp><rt>スプラ</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>ナショナルな次元のアイデンティティ、シーア派・スンニ派、あるいはクルド、アルメニア、パレスチナなどの<span><ruby><span><span>準</span><rp>(</rp><rt>クァザイ</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>ナショナルないしサブナショナルかつボーダーレス的な規定の対象となる宗派・民族的アイデンティティ、さらに最終的には部族・出自地域にまで還元されうる血縁地縁的な帰属意識など、中東においては各レベルのアイデンティティが複雑に錯綜している。その時々の与件や情勢によって、そのように重層化しているアイデンティティの中から前景化する表層が目まぐるしく変遷してきたのが中東の現代史にほかならない。その意味では、一般的な国際関係の理論モデルを留保なしに中東に適用するのには慎重を期す必要があろう。例えば、中東の国際政治を分析する上で比較的頻繁に用いられるリアリズム論の理念型では、国家の対外政策の究極目標は自己保存、すなわち独立と安全保障との保全にあり、当該国家はこれを域内外の国際システムにおける勢力均衡をはかることによって達成しようとすると規定される。その際、個々の政策は、当該国家の物理的な国力の現実（規模・人口・地勢地誌・資源・兵力量<span>etc.）によって半ば自動的に規定される国益の損得計算に基づいて決定されるというように、意思決定主体としての国家をある種ブラックボックスとして措定する。このような枠組みでは、当該国家の為政者自身や彼に対して直接間接に圧力を行使しえる国民大衆の心情的傾斜や先験的選好といった要素を分析の射程に取り込めなくなるため、既述したように濃厚なアイデンティティ政治の性格を帯びる中東の国際関係の把握に齟齬が生じる可能性を排除できない。</span></div>
<div>
	　言うまでもなく、エジプトやモロッコといった伝統的にそれなりのまとまりと帰属感を備えてきた事例はむしろ例外的で、大多数のアラブ諸国は欧州列強の帝国主義的分割の結果出現した<span><ruby><span><span>人工構築物</span><rp>(</rp><rt>レヴァイアサン</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>である。それぞれに異なる領域内部の社会的亀裂を架橋し、多岐にわたる部族や宗派、エスニック集団を権力的、強制的に同質化するプロセスが、これら諸国の国民統合と国家建設の内実であった。対内的には権威主義的な強権支配体制が、対外的には反帝国主義・反シオニズムの統合シンボルが、いわば相互補完的にそうした目的を達成するための必要欠くべからざる装置として作動してきたのである。そのような観点から「アラブの春」を位置付ければ、この変動が強烈に指向した脱強権支配、自由化、民主化のベクトルが、従来の対外的な反欧米・反イスラエルの<span><ruby><span><span>契機</span><rp>(</rp><rt>モメント</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>にどのように波及するかはさしあたり今後の注目点となろう。あるいはさらに進んで、少なくともいったんは統合されたかに見えるそれぞれの国民国家的な枠組みは所与として前提にされるのか、それともそうした枠組みそれ自体が問い直されることになるのかという問題も、長期的には残される。すでに<span>2003年に欧米有志連合によって「外から」サダム・フセインの強権支配が打倒されたイラクでは、アラブvs.クルド、スンニ派vs.シーア派というアイデンティティ政治上の対立抗争が常態化し、今回の「アラブの春」によって「内から」アサド父子の世襲権力政権の打倒が目指されているシリアでも、内戦は次第に宗派間抗争の様相を強めつつある。同じく「アラブの春」で「内と外から」すなわち内戦とこれに対するNATO主体の介入によってカダフィ体制が解体されたリビアでは、トリポニタリア、キレナイカ、フェザーンの伝統的な地域的・部族的対抗関係が復活したかに見える。打倒の対象となったこれら三国の独裁体制はそれぞれ英・仏・伊の植民地主義的領域支配をそのまま受け継いでいた事実、および本質的には同様の事態を抱えていると考えられるヨルダン（ベドウィンvs.パレスチナ人）、イエメン（南北部族対立）、バハレーン（シーア派vs.スンニ派）などの状況を踏まえると、現在進行中のアラブ世界の政治変動を歴史的な脱植民地化闘争の新たな局面と捉えようとする見方にも、それなりの根拠が認められるのである。つまるところ「アラブの春」の中東国際関係における含意は、原理的には既存の<ruby><span><span>国民国家的統合</span><rp>(</rp><rt>ナショナル</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>のベクトルと、これを攪乱する<span><ruby><span><span>越境的</span><rp>(</rp><rt>トランスナショナル</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>なベクトルとのせめぎあいの帰趨をどう見るかというところに逢着するように思える。</div>
<div>
	　現在の中東国際情勢が見通しづらいのは、主要な主権国家間のパワーゲームがここに述べてきたような域内アイデンティティ政治と錯綜して展開されているからにほかならない。そこでは、イラン・イスラーム革命政権の封じ込めやパレスチナ国家樹立によって中東主権国家体制を維持し完結させようという、いわば強く現状維持を志向する勢力と、これに対抗してイラン包囲網を突き崩し、パレスチナ解放闘争を貫徹しイスラエル国家を解体しようとする現状打破勢力とが、厳しく鬩ぎ合っている。この視点を基軸として全体の情勢を観望すれば、主要アクターであるそれぞれの国家が、「アラブの春」を契機として噴出しつつあるアイデンティティ政治の<span><ruby><span><span>回路</span><rp>(</rp><rt>チャンネル</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>を国益極大化のための手段として活用しようと躍起になっているかに見えるのである。</div>
<div>
	　サウジアラビアその他の現状維持陣営は、第一に動乱が自国内に波及することを抑止し、第二には現状打破勢力の伸長を牽制防止するという目的のもとに、動揺するアラブ諸国の内政に直接間接の関与を強めることになった。バハレーンやヨルダンでは体制権力の保全に向けて、リビアやシリアでは反体制勢力の奪権支援に向けて、有形無形の工作が展開されたのである。そもそも現状維持と現状打破という二つの陣営間の競合とは全く関係のないところで生起した「アラブの春」は、ここにこれら両陣営間の対抗関係と結びつくことになる。さらにそれは、地域のアイデンティティ政治と重なって、イラン<span>=イラク=シリア=ヒズボラというシーア派枢軸に対抗するサウジアラビアなど湾岸諸国（GCC）＝ヨルダン=エジプトその他のマグレブ諸国のスンニ派連合という色彩を帯びることになった。その典型的な「草刈り場」と化したのがシリア内戦にほかならない。</span></div>
<div>
	　シリア内戦は、もともとは世俗主義的統合原理に立つバアス党支配下での既得権益に関わる受益層と疎外層との対立が、次第にアイデンティティ政治的な対抗図式の中に囲い込まれ、権力中枢に蟠踞するアラウィ派および他の宗教宗派的少数派との連合と、多数派を占めるスンニ派との間の闘争という色彩を強めてきている。そしてそのようなシリア内部の体制支持派と体制打倒勢力との対抗関係が、既述のような域内国際関係における現状維持陣営と現状打破陣営とのせめぎあいと接合され、同時に「アラブの春」で刺激された地域的なアイデンティティ政治の外皮を纏うことになった。そこでは、アラブの一国であるシリアの統制を巡って、イランとトルコという非アラブの両国が、また「アラブの春」を生き抜いてきたサウジアラビアと、「アラブの春」で政権が交代したエジプトというアラブ世界の両雄とが、直接間接に錯綜した関係を切り結んでいる。そしてそこには、各主要アクターが自身の<span><ruby><span><span>国民国家的</span><rp>(</rp><rt>ナショナル</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>な権益の維持拡張を、アラブや非アラブ、あるいはスンニ派やシーア派といった、すぐれて<span><ruby><span><span>越境的</span><rp>(</rp><rt>トランスナショナル</rt><rp>)</rp></span></ruby></span>な回路を操作することによって達成しようとする逆説が存在する。その意味では、内戦の波及を抑止するための介入や関与が、むしろ波及の促進要因を創出する惧れもなしとしない。</div>
<div>
	　このように見てくると、リビアやイエメン、あるいはバハレーンなど、同じく「アラブの春」に揺れる他の内戦・争乱事例と、シリアのそれとは国際関係への含意という点で明確に区別されねばならないことが理解されよう。シリア内戦の帰趨は、社会的亀裂を幾重にも含み込んでいる隣接諸地域に混乱が波及しかねず、また中東地域におけるパワーセンターそれぞれの影響力の消長に直結すると認識されているからである。ヒズボラのシリア内戦関与はそのままレバノンにおける宗派間の緊張関係の昂進に跳ね返りかねないし、トルコやイラクはシリア北部のクルド人勢力の動向が自国内のクルド人組織の活動活発化につながることを警戒せざるを得ない。加えて、イラクはシリアでアサド政権が打倒されればそれが自国内で巻き返しをはかるスンニ派を勢いづかせると考えていよう。逆に、アラビア半島におけるシーア派の反乱を懸念するサウジアラビアなど湾岸諸国は、アサド政権の没落がその封じ込めを容易にし、シーア派の背後にあってスンニ派王政・首長制の打倒を使嗾していると看做すイランの意図を挫くことができると信じている。ムスリム同胞団が奪権したエジプトは、シーア派イランのイスラーム革命体制と一括されることを嫌い、サウジアラビアをはじめとするアラブ同朋諸国との連携を重視して、シリア内戦においては反アサドの旗色を鮮明にしつつある。ヨルダンは、内戦の自国への波及が伝統的なベドウィン系とパレスチナ系の顕在化させかねないことを危惧し、表見的には不関与の姿勢を貫いているが、アサド政権に一片の同情も寄せていないことは明らかである。かといって、アサド後のシリアがエジプトと同様にムスリム同胞団などイスラーム勢力に奪権される展開もまた恐怖の対象となる。シリア内戦はまた、同国のパレスチナ難民を再難民化させ、彼らの問題を通じてイスラエル占領支配下とパレスチナ自治政府、およびハマスの実効統治下にあるヨルダン川西岸やガザにおけるパレスチナ人の憤懣を噴出させる契機にもなり得る。かくして今後のシリア内戦については、各国の国益とアイデンティティ政治とが錯綜し、それぞれに厳しくせめぎあう展開が予想される。そうだとすれば、リビアの事例、あるいはバハレーンの事例のような外部勢力の直接的介入は事態をいっそう紛糾させるだけに終わる蓋然性が高い。「保護する責任」を掲げてリビアに介入した国際社会が、より深刻な人権被害の下にあるシリアへの介入を忌避するのは二重基準にほかならないとする批判の一方で、介入それ自体が事態の収拾につながらず、むしろ周辺に混乱を振り撒く危険性すらあることを勘案すれば、介入慎重論にも一定の論拠が認められるのである。</div>
<p>
	　さて、ここまで「アラブの春」を振り返ってその意味するところを「再考」してきたわけだが、これを踏まえて我が国としてどのように対応すべきかについて若干の論点を指摘し、このコラムを擱筆したい。何よりも先ず、中東の主権国家体制の安定が我が国にとって極めて重要である点を確認したうえで、それら諸国家の政治的正当性が真の意味で民意の裏付けを持つこと、すなわち権威主義的支配から民主主義的合法性への移行を果たす限りにおいて、一連の変動は中東の安定を長期的に担保し、したがって我が国の国益に資するという認識を持つべきであろう。すでに体制移行過程にあるチュニジア、エジプト、リビアはもとより、オマーン、モロッコ、ヨルダンなどで動き始めている民主化ないしその定着に向けての努力を積極的に後押しする政策が、当然求められよう。同時に、熾烈化の一途を辿っているシリア内戦について、その周辺への波及を防止しようとする国際協力体制の構築に貢献することも不可欠である。内戦の早期収拾に我が国が果たし得る役割は限られているが、他方で内戦収束後の復興に向けて何ができるかの検討・研究に着手しておくべきであろう。また、アルジェリアのイナメナス襲撃事件で明らかになったように、今後ともより広範な地域で活動を活発化させると思われるイスラーム過激派など越境的勢力に関する情報の収集・分析の態勢を構築・強化するとともに、欧米および中東諸国との間で情報共有に向けた提携関係を重ねる必要がある。実際、「アラブの春」以降、イスラーム主義勢力の台頭は著しい。しかし、我が国のみならず欧米でもこうした勢力に関する知見は決して十分とはいえない。これらの運動・イデオロギーの顕著な特徴の一つはその多様性にあり、文脈や地域により異なった思想や活動が見られる点に留意するべきであろう。求められているのは、長期的な展望に立って、これら勢力の思想や組織、活動状況に関する知識や情報を収集・蓄積する努力である。そのためにはアラブ諸国でのイスラーム主義運動はもとより、アジア諸国なども含めた多元的・複眼的な越境イデオロギー・運動についての研究を活発化させる必要があろう。</p>
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    <title>外交文書公開に関する備忘録</title>
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    <published>2013-03-04T08:56:21Z</published>
    <updated>2013-03-04T08:56:21Z</updated>

    <summary> 	外交文書公開に関する備忘録 	―１９７１年の昭和天皇・ニクソン会見をめぐって...</summary>
    <author>
        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/">
        <![CDATA[<div style="text-align: center">
	<img alt="masuda.jpg" class="mt-image-right" height="159" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/kyoin/img/masuda.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="120" />外交文書公開に関する備忘録</div>
<div style="text-align: center">
	―１９７１年の昭和天皇・ニクソン会見をめぐってー</div>
<div style="text-align: center">
	&nbsp;</div>
<div>
	（１）去る２月２８日、外務省は恒例となった日本外交文書の解禁を公表した。計７２ファイル、恐らく全体で数万枚は下らないであろう。当然ながらマスメディアは、一体何が今回の&ldquo;掘り出しもの&rdquo;なのか、&ldquo;目玉&rdquo;は何のかと血眼で探りを入れることになる。そこで毎回、公開された外交文書の分野に精通すると思われる専門家や研究者、大方は大学教授が報道側の助っ人として駆り出される。幸か不幸か、今回は私がその標的の一人と相成った。しかも共同通信社、読売新聞社、ＮＨＫと３社が連なることとなった。　</div>
<div>
	　以下、今回の外交文書公開の概要に触れた上で、その中での最重要文書と考えられる「１９７１年９月の昭和天皇・皇后両陛下のアンカレッジ訪問時における天皇・ニクソン大統領会見顛末」を備忘録として、ここに論述しておきたい。</div>
<div>
	　</div>
<div>
	（２）本論に入る前に、全文書について若干のコメントをしておきたい。今回の公開文書は大きく６グループに分けることができる。ⅰ）は連合軍の本土進駐に伴う日本側、主に外務省の出先機関である終戦連絡中央事務局（いわゆる終連）の対応文書で、第１～１９ファイルである。ⅱ）は日本人の身元調査に関するGHQ依頼文書で、第２０～２３ファイルである。ⅲ）は対日平和条約実施関係文書で、第２４～３６ファイルである。ⅳ）は昭和４６年（１９７１）天皇皇后両陛下の訪欧文書で、第３７～５２ファイルである。ⅴ）は戦犯裁判関係雑件文書で、第５３～７０ファイルである。そしてⅵ）が対日賠償問題雑件文書で、第７１・７２ファイルである。</div>
<div>
	　前述のとおり、これらは大量に及ぶため、予め重要と思われるものを各概要から選別し、上記ⅰ）の第１・２ファイル、ⅳ）の第３７～３９ファイル、そしてⅴ）の第５５～５８および６１・６５ファイルの、計１１ファイルの約２千枚程度が段ボール箱２個に詰められて拙宅に運ばれ、それを３月２日の丸一日と３日午前中にかけて集中的に目を通すこととなった。ⅳ）を除けば、ほぼすべてが６０年以前の占領時代の代物であるため、紙質が悪く印刷も不鮮明で、目の負担がきわめて重く感じられる作業となった。</div>
<div>
	　その結果、残念ながらⅰ）およびⅴ）のファイルはこちらの期待に反して空振りとなり、ⅳ）の中の第３８と３９の両ファイルの一群の文書に光明を見出すこととなった。そこで以下、１９７１年９月２７日から１０月１４日に至る（いずれも日本時間）両陛下御訪欧時の初日におけるアンカレッジでの昭和天皇・ニクソン米大統領会見文書に限定して、その政治的顛末を論述する。</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div>
	（３）そもそも日本側からすれば、天皇・皇后両陛下ご訪欧の途次、米国アラスカ州アンカレッジに立ち寄るのは給油と休息のためだけであった。政治性は絶無であった。ところが米国側、とくにニクソン大統領ないしその周辺から、この天皇の米国立ち寄りを好機ととらえ、政治利用する動きが突然起こって来る。その結果、日米双方の思惑がぶつかり合い、日本側は徐々に米国側に譲歩を重ねていくことになる。</div>
<div>
	　ではなぜそのような日米間の相違が生じたのか、その背景、とりわけニクソン政権側の政治的意図とはどのようなものであったのか。また日米間の外交交渉の推移とはどのようなものであったのか。最終的な交渉結果はどのようなものとなったのか。そして天皇・ニクソン会見は歴史的にどのような意義をもったのか。これらが本件をケーススタディの主題として取り上げる際の問題提起となるであろう。</div>
<div>
	　なお日本側文書を精読するに当り、やはり公開されたばかりの米国側文書、具体的にはホワイトハウス、国務省、NSC（国家安全保障会議）文書を用いて、事実関係を立体化していくことにする（その点で本学図書館の鷺谷・青山両司書のご協力に感謝したい）。</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div>
	（４）ではいかにして本件が日米間の外交課題となっていったのか。</div>
<div>
	　まず事の始まりは、１９７１年２月２２日付の極秘文書で、ワシントンの牛場信彦駐米大使から東京の本省宛に、「（在米大使館の）黒田をしてグリーン国務次官補を往訪せしめ、&hellip;（天皇・皇后両陛下の）アンカレッジ御休養の通報」を行った際、「同席したエリクソン日本部長は本件公表後、天皇陛下は米国を近く訪問されるかとの質問が必ず報道機関より出てくると予想されるが、これに何と答えようか」と質したことにあった。そこで牛場は同日付の本省宛極秘文書で、本件発表とともに在京米記者より、①今回米国を御訪問されない理由、②今後の御訪米の見通し等について質問が提起されると予想され、エリクソンの質問もあり、「その応答振りにつき大至急回電たまわりたい」と本省に要請した。</div>
<div>
	　これに対して翌２３日、愛知揆一外相は「わが国と米国との友好関係を考えるとき、同国を訪問になることは考えられることである。しかし今回ヨーロッパに引き続き米国を御訪問になることは、日程にさらに相当長期間を組込む必要があり、１回の御旅行としては無理なので、今回においでにならないこととした」との極秘の返書を牛場に送った。さらに愛知は同日、秘密の大至急文を牛場に送り、「両陛下には、往路は９月２７日昼頃、帰路は１０月１４日午前に特別機の給油及び御休息のため大々数時間、貴地に滞まられる予定である。ついては、お見込みにより州政府にこの旨通報の上、その際の然るべき便宜供与方依頼しおかれたい。尤も貴地では御休息が目的であるので州政府等による接遇は何等期待しおらず、むしろ遠慮したい。&hellip;御休息に適当なホテル等あらば電報ありたい」と念を押した。また翌２４日に愛知は在アンカレッジ郎領事に対して、９月２７日夕方の東京発から１０月１４日午後の帰着までの日程を送付したのである。</div>
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	　以上のように、この時点では日本側はアラスカ州政府関係者との会見など考慮しておらず、ましてや米大統領の登場などまったく予想していなかったのである。ところが半年を経過した８月初頭から状況に変化が生じる。</div>
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	&nbsp;</div>
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	（５）８月５日、牛場大使は外相宛に極秘文書を送り、ジョンソン国務次官からの伝達を報告した。①ニクソン大統領においては天皇陛下の御訪欧途次アンカレッジお立ち寄りの際、日程が許せば自ら出迎えたいとの強い希望を有し、至急日本側と折衝方を命じられた。②このためアンカレッジにおける滞在を少なくも２時間程度とし、両元首の会見にふさわしいDIGNITYを確保する必要があると思う（単に給油時間を利用するという印象を避けたい）。③在京米大使館が宮内庁より聞いたところでは、天皇陛下は９月２７日午前９時５５分に羽田発、２６日午後１０時４０分アンカレッジ着、同１１時４０分発のご予定と承知する。他方ニクソン大統領は予定行事の関係上、２６日サンクレメンテよりアンカレッジに飛来し、同夜ワシントンに直行せねばならない。よって羽田御出発を１時間繰り上げ（即ち２７日午前８時５５分）アンカレッジ着を２６日午後９時４０分として２時間ご滞在されることが可能であれば最も好都合である。④本件はもとより主として日本側の御都合によることであるが、大統領のせっかくの希望でもあり、もし実現することができれば日米関係のため何物にも勝る有益なことと考えるので、是非とも日本政府の好意的考慮をわずらわしたく、至急回答を得たい。⑤発表については慎重に打ち合わせたい。発表まで絶対極秘に願いたい。⑥目下のところニクソン夫人が大統領に同行する予定はない。</div>
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	　ではなぜジョンソンはこのような行動に出たのか。８月２日午後６時１０分、ジョンソンはキッシンジャー大統領補佐官との会話の中で、目下の天皇のアンカレッジ予定ではニクソン大統領が面会できないこと、だから暗に日本側と時間の調整をキッシンジャーから依頼されている（&lt;TELCON&gt;&nbsp;Amb. Johnson/ Kissinger,&nbsp;President Nixon to Meet with Hirohito,&nbsp;Aug 02, 1971&nbsp;6:10p.m., DIGITAL NATIONAL SECURITY ARCHIVE 以下同じ）。つまり、ニクソンから直接命を受けたキッシンジャーがジョンソンに指示したのである。ニクソン本人ないしその周辺が天皇との会見の政治的意義を見出したからであろう。</div>
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	　そこで牛場は米国側の意向を受け入れ、天皇一行の東京出発時刻の繰り上げを提案する。</div>
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	７日、外相の福田赳夫（７月５日就任）が入院中のため臨時代理外相となっていた木村俊夫から牛場へ、「当地御出発を３０分繰り上げ、アンカレッジ御出発を３０分遅らせる方向で検討中」との返信が届けられた。ところが９日付の牛場から外相宛極秘文書では、同日ジョンソンに伝えたところ、「御到着１時間繰り上げ」を要請してきたのである。</div>
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	　ここから本格的な日米交渉が開始される。</div>
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	&nbsp;</div>
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	（６）米国側の唐突な提案に対して１１日、訪欧の準備本部長から牛場へ極秘文書が送られ、①皇居０９００発もアンカレッジ着２６日２２４０は相当の無理があり、米側が１時間繰り上げを要求する具体的根拠を承知する必要がある。②大統領のワシントン着は、アンカレッジ御出発を見送るのでない限り（当方はこれを期待しない）、いずれにせよ２７日朝になると思われるが、米側は御会見の時間割をどのように考えているのか承知したい（わが方としては御到着直後から３０分位が適当ではないかと考えている）。③御会見は通常の元首御会見の例に従い、両陛下と大統領（夫妻）のみで行われるものと了解する。以上の３点を提起した。要するに、天皇会見の米国側の意図がわからないと指摘したわけである。</div>
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	　そこで牛場は１１日にジョンソンに真意を質すと、ジョンソンは、①これまで大統領のほかはロジャーズ国務長官、キッシンジャー等極めて少数者以外には全く秘匿されていたため、アンカレッジにおける行事はこれから早速人を同地に派遣して固めるので約１週間を要しよう。従って御質問には直ちに答えられない。②アンカレッジ滞在を２時間とすることに同意されたのはアプリシェートするが、日本案では２７日午前０時１０分となり、遅すぎるのではないか。③首脳会談の際の米国側の慣行は、先ず両首脳のみで３０分間、引き続き３０分間随行者を交えて会談することである。大統領にはロジャーズか自分、あるいは双方が同行することが確実なので、陛下のお疲れ誠に恐縮であるが、折角の機会なので右の慣行に従い御二人限りでお会いになった後、米側上記随行者、日本側福田外相と恐らく島式部官長を交えて会談することを御承諾願いたく、合計１時間をこれに充てても陛下のお休みの時間はあるのではないか。④大統領は陛下をお出迎えするのみでなく、御出発の最お見送りするだろうというのが自分の感じである、と答えた。</div>
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	&nbsp;</div>
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	（７）このようなジョンソンの回答に対して、１６日、木村外相代理から牛場へ以下の方針が伝えられた。１．対米協議の骨子は、①大統領のアンカレッジ<span>出迎えは純粋に儀礼的のものとし、絶対に政治色を帯びさせないこと。②大統領の厚意は多とするが、そのため両陛下の御行動や、デンマーク側に余り迷惑を及ぼしではならないこと。③御会見には皇后陛下の御同席が絶対必要である。２．発着時刻の変更はアンカレッジにおいて如何なる行事にどの程度時間が必要かが判明してから考えるべきであって、行事の内容も不明のまま２時間御滞在を固執する米側態度は理解に苦しむところである。（わが方は２時間に同意したつもりはない。）３．①ジョンソンの言う首脳会談の米側慣行なるものは、政治会談の場合であり、今回の場合には必ずしも適合しない。（例えば英国女王が訪米した場合、この方式が適用されるとは思われない。）②差当り、わが方としては「御召機到着、大統領は機側でお出迎え。出迎え諸員御紹介の後、両陛下を御会見の場所に誘引。（大統領夫人同伴の場合は同夫人を交えて）御会見約３０分。両国外務大臣ご挨拶のため伺候約１０分。次に両陛下は御休所にお入りになり御休息。御出発時大統領がお見送りになる場合は機側でお別れの御挨拶。」③御会見の場所は空港内を希望するが固執しない。④御休息時間は適宜圧縮可能であり、コペンハーゲン着が日没後余り遅くならないことが要件である。</span></div>
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	　米国側もこのような日本側の強い反発を考慮したのか、次のように譲歩した。１８日の牛場から外相宛の極秘文書で、「米側としては御到着を３０分繰り上げ２２：１０、御出発を３０分繰り下げ、２７日００：１０とすることとしていただければ結構である。&hellip;当初予定通り２３：４０のままとすることができるか否かは、陛下の御休息時間次第」である。２１日にアンカレッジにホワイトハウス及び儀典関係者を派遣し、同地で具体的な空港建物の施設等を点検の上、御会見の場所その他を決定する。翌１９日には牛場から、日米両国での会見に関する公表を日本側の要望通り２１日で同意することと、大統領夫人の同伴を決定したことが伝達された。</div>
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	　こうして２１日、宮内庁は、「この度、アメリカ政府から天皇皇后両陛下ヨーロッパ諸国御訪問の途次、同国アンカレッジにお立ち寄りの際、ニクソン大統領閣下が御出迎えになる旨通報があったので、両陛下は９月２６日（現地時間）同地において同大統領閣下と御会見になることとなった」と簡単に公表した。</div>
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	　米国側でも現地の２０日に、「Statement by the President」と「Press Guidance for President&rsquo;s Nixon Trop to Anchorage to meet the Emperor of Japan - Sep 26, 1971」が発表された。ここでは、①北京訪問に対する日本の反発を避ける、②この出迎えは通常の大統領としては異例の行動である、③天皇の最初の外国訪問である（１９２１年の訪欧は皇太子時代）、といった諸点が強調されていた。また質疑応答の中で、①天皇の公式な米国訪問を、米国はいつでも歓迎する、ただし現在はまだその決定には達していない、②大統領の訪日に関しては現在は何もなく、将来適当な時期に訪日したい、と明らかにされた。</div>
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	　これに対して『ニューヨークタイムズ』は社説「NIXON HIROHITO MEETING」で、この決定はニクソンの外交および経済文やの措置により日米関係が悪化した現時点における日本国民に対するジェスチャーである。本件決定は日本で歓迎されているが同時にインテリ層の中には陛下が政治的に利用されるのではないかと案ずる向きもある」と報じた。</div>
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	　以上で天皇とニクソンとのアンカレッジ会見の概要が固まったわけである。</div>
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	&nbsp;</div>
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	（８）８月２６日、木村臨時外相は牛場大使へ極秘文書を送り、次のようなアンカレッジでの行事が２３日夜来日したモスバッカー儀典長との打合せで決定したと伝えた。すなわち、①アンカレッジ現地時間２６日２２００着、２３４０発の１時間４０分御滞在、②空港は施設及び行事の都合からElmendorf空軍基地に変更、③大統領夫妻が機側で迎え、栄誉礼、両国国歌吹奏、陛下及び大統領による閲兵、④格納庫内にて大統領の歓迎の辞、陛下の御答辞、出迎え者の紹介、⑤車で御同乗、アラスカ地区軍司令官邸に到着、１０分間両陛下・大統領夫妻の身で」御歓談。次いで夫人は皇后陛下を近くの迎賓館に御案内。<span>天</span>皇・大統領はお二人のみにて３０分間御会見。⑥この間（４０分）福田大臣・ロジャース長官、キッシンジャー、牛場、マイヤー両大使等は迎賓館に直行し、会談<span>（少なくとも外</span>部に対しては政治向きの会談ではなく、一緒に待っていたものとしたい。）⑦その後前記⑥の者は司令官官舎に赴き、陛下及び大統領に謁見（１０分）。⑧大統領夫妻が車で両陛下と同乗、空軍基地に向かい、御出発を見送る。</div>
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	　ここで初めて米国側が、天皇・ニクソン会見と同時間帯にロジャーズ、キッシンジャー、マイヤー、福田、牛場らの日米随員間会談を行うことを提示したのである。しかし依然として日本側は政治会談とならないように枠をはめようとしていた。それは同日に再度、日本側が、①天皇一行のアンカレッジ御滞在を１時間４０分とする。そこで東京出発を約３０分早め、現地着は26日午後１０時とし、同地出発は当初予定通り１１：４０とする（デンマークに迷惑はかけない）。⑤天皇陛下は引き続き大統領とお二人だけで３０分間御会見になる。⑥この間、福田大臣以下若干の随員は、前記の迎賓館に直行、ロジャース、キッシンジャー等と同所で会談する（<span>この会談は、少なくとも外部に対しては、政治向きの話をしたことにしないで欲しい旨米側に要請しておいた）。このように念を押していた。</span></div>
<div>
	　しかし実は同じ２８日朝８時、佐藤栄作首相の意を受けた若泉敬（吉田と名乗る）がキッシンジャーと電話会談をしていた。その中で若泉は、①佐藤がまず来年（１９７２）夏に公式の訪米を行い、そのあとにニクソンの訪日を実施する、②今回の天皇の訪問に佐藤が同伴し、アンカレッジでのニクソンとの首脳会談を行う、という点を提案していることは注目に値する。若泉は沖縄返還交渉と日米繊維交渉の裏舞台で活躍していたばかりでなく、この天皇の外遊にも絡んでいたことになる。</div>
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	&nbsp;</div>
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	（９）９月１３日、現地の下見調査を踏まえて次のような９月２６日の核心部分が固まった。「２２：００天皇のエルメンドルフ空軍基地着（平服）、ニクソン大統領夫妻お出迎え。２２：５７両元首御会見（皇后陛下は別室へ）。２３：４０アンカレッジ発」とする。次いで１８日、当日の日程が明らかになった。すなわち、①日本側参加者に侍従長と式部官長を追加し、福田外相、牛場大使、宇佐美宮内庁長官、侍従長、式部官長、侍従次長、儀典長等とする。②当日は午後９：５０大統領夫妻到着、９：５７御召機着、９：５８大統領夫妻機側へ、１０：００両陛下着、１０：０５－０７儀仗兵閲兵、大統領と天皇顔合わせ、１０：１２大統領挨拶、１０：１７－２５天皇挨拶、１０：３０－４０司令官邸へ着、１０：４５－５５写真撮影、１１：００夫人と皇后、別室へ移動。大統領と天皇会談開始、１１：２０日米随員迎賓館を発ち迎賓館へ、１１：２５大統領と天皇に合流：ロジャーズ、キッシンジャー、グリーン、マイヤー、モスバーガー、福田、牛場、宮内庁長官、侍従次長、儀典長、１１：３０バス、空港へ、１１：３５会談終了、１１：５０大統領夫妻が両陛下に挨拶、１１：５５御召機発、１２：０５大統領夫妻、迎賓館着。しかしこれら日程は米国ペースで決定されていた。　</div>
<div>
	　２０日、退院して外相に復帰した福田は次のような怒りをもって反論した。①Ｔｏｐ４御会談時間（イ）が随員入室後の時間（ロ）より短くなるのは絶対に不可であることは、先般モスバッガ―来日の際、当方から十分説明しておいたに拘らず、Duval提示の案において（イ）を１０分、（ロ）を２０分とし、しかも前者は写真取材で終止することになっているのは、わが方として理解に苦しむ点である。②<span>（イ）を御会談の最重要部分とする考</span>え方は、わが方として譲り得ない一線である。<span>米側には</span>(ロ)にかなり重要性を置いているやに想像されるが、実際問題として大統領を前にして<span>天皇陛下が両国外相等と挨拶以上の会</span>話に入られることは考えられず、この部分に時間をかけることは無意味である。</div>
<div>
	　依然怒りが収まらなかったのか、その１時間半後に福田は再び牛場に次のような電文を送った。①現地米側はアンカレッジが欧州諸国御訪問の途中のお立ち寄りに過ぎないことを忘れたかの如き<span>非常識な提案を行う有様で、わが方としては迷惑千万である。②わが方としてはＴｏｐ４の御会談が主であるべきで、これを写真撮影に終始させるような考え方はわが方として到底受け入れられない（但しモスバーガーの要望を入れてＴｏｐ２の単独御会談により長い時間を割くことは同意する）。③政治的会談ならば、Ｔｏｐ２の単独会談に続いて随員を加えて会談ということも考えられるが、今回の場合、随員は御挨拶以外には何等の役割を有しないものであるから、この部分にＴｏｐ４よりも長い時間をかけることは、日本人には天皇陛下を政治会談に引き込まんとしたとの印象を与えるのみで、米側にとっても決して望ましいことではないと信じる。</span></div>
<div>
	　福田は「非常識な提案」とか「迷惑千万」といった激しい表現をもって反駁した。つまり、彼は随員間の会談が米国側の主たる政治目的であることを理解せず（あるいは察知しながらもそれを拒む）、あくまでも天皇・ニクソン会見を主とし、随員間会談を副とすべしとの考え方に固執したわけである。</div>
<div>
	　しかし日本側は米国側の要求を退けることはできず、結局上記の日程を受諾する。そして、２６日当日の「両陛下御動静報告」（２９日付の外務省吉田担当官報告）は、次のように伝えていた。①当日は快晴、珍しい秋日和、日中で摂氏５度、当日は市民の歓迎盛大、８時基地開門と同時にエンメンドルフ空軍基地へ続々と押し寄せる、②ニクソン大統領夫妻は２１時５分に格納庫前に到着、所定の位置で陛下の到着を待たれた。③御召機は定刻通り２２時００分格納庫前に到着。両陛下がタラップ上にお出まし、会場から激しい拍手と歓声、一瞬興奮のるつぼと化した。④タラップを降りて大統領夫妻と劇的な握手、約６千名の観衆、VIP３００、VVIP４０人、在留邦人が見守る中、空港における式典終了後、陛下はお振り向きになりお帽子を振ったことに、拍手が巻き起こった。⑤歓迎式典終了後、VVIPの州知事、市長、ヒッケル内務長官、アラスカ軍総司令官、空軍司令官が挨拶。⑥陛下と大統領の歴史的な御会見については、大統領がお出迎えのため当地に赴くという報道があって以来、当地の各紙はいうに及ばず、テレビ、ラジオ及び空軍基地内の新聞に至るまで報じる。⑦行事はすべて予定通りの時間帯でスムーズに行われ、何事もなく無事終了した。⑧９月２６日２３時４８分、アンカレッジ出発</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<p>
	（１０）９月２６日午後１０時３５分から１１時２５分の間、天皇とニクソンは一体何を話し合ったのだろうか。今回の記録文書は何ら明確にしていないため、想像の域を出ないが、少なくとも天皇が敗戦後の日本の復興と発展のために貢献してくれた米国への感謝の念をニクソンに表明したことは間違いであろう。むしろ、その元首会談の陰に隠れた随員間会談、とくにロジャーズ、キッシンジャー対福田、牛場会談こそ重要な意味を持っていたと想定できる。恐らく双方は、①近く予定されているニクソンの北京訪問の意図、②８月１５日に発表された米国の新経済政策、いわゆるドルショックに関する釈明、③天皇の公式の訪米要請とニクソン大統領の初の訪日要請、を討議したであろう。この４０分間の会談内容に関する外交文書こそ、来年ないし早期に公開が待たれるであろう。</p>
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    <title>「アラブの春」再考（２）</title>
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    <published>2013-01-22T08:55:15Z</published>
    <updated>2013-01-22T08:55:15Z</updated>

    <summary> 	 		アラブ世界のイスラーム的心性 	 		「なぜ、今なのか？」という前回の...</summary>
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        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div align="center" style="text-align: center; text-indent: 10.55pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
	<div style="text-align: center; text-indent: 10.55pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'"><b>アラブ世界のイスラーム的心性<img alt="池田先生.jpgのサムネール画像" class="mt-image-right" height="141" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/assets_c/2012/12/池田先生-thumb-140x141-3182.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="140" /></b></span></span></div>
	<div style="text-align: justify; text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'">「なぜ、今なのか？」という前回の問いは、「なぜ、四半世紀前の東欧・中南米・東南アジアなどの民主化と連動しなかったのか？」という問いでもある。そこには、中東のアラブ世界に根付く「<span><ruby style="ruby-align: distribute-space"><span><span>イスラームの館</span><rp>(</rp><rt style="layout-grid-mode: line; font-size: 5pt">ダール・アル・イスラーム</rt><rp>)</rp></span></ruby></span><span style="font-size: 10.5pt">」の心性が強く作動しているように思われる。かつて冷戦構造の崩壊時には、他の地域では「<ruby style="ruby-align: distribute-space"><span><span>世界新秩序</span><rp>(</rp><rt style="layout-grid-mode: line; font-size: 5pt">ワールド・ニュー・オーダー</rt><rp>)</rp></span></ruby></span><span style="font-size: 10.5pt">」への期待が溢れかえり、陣営の東西を問わず強権支配を続ける権威主義体制の正統性が突き崩されて自由化・民主化のうねりにつながっていった。しかし中東のイスラーム世界においては、例えばその結果として実現した西側主導のヨーロッパの統合という事態が、強力な「<ruby style="ruby-align: distribute-space"><span><span>キリスト教圏</span><rp>(</rp><rt style="layout-grid-mode: line; font-size: 5pt">クリスチャンダム</rt><rp>)</rp></span></ruby></span><span style="font-size: 10.5pt">」という古くて新しい脅威の出現とも見えたのである。東欧やロシアにける旧体制の崩壊に、それまで共産党イデオロギーの下で押さえつけられていた各派のキリスト教会が大きな役割を果たしたことが、そうしたイメージをことさらに拡幅した。</span></span></span></div>
	<div style="text-align: justify; text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'">政治体制が東西のいずれに属するにせよ、中東の一般民衆はその大多数がムスリムである。そして、彼らが帰属する国家は、冷戦の<span><ruby style="ruby-align: distribute-space"><span><span>親分=</span><span>子分</span><rp>(</rp><rt style="layout-grid-mode: line; font-size: 5pt">パトロン=クライエント</rt><rp>)</rp></span></ruby></span><span style="font-size: 10.5pt">関係にあってはどこまでも子分でしかない。彼らにとって冷戦構造は、自ら属する国家社会が東西それぞれの陣営に一定の位置を占めるという意味で安定的な政治上の帰属感を提供していた。冷戦崩壊は、東側には文字通り陣営の消失を、西側には（東側への対抗陣営に属するという）その存在意義の喪失をもたらした。そうした中で、あろうことか親分同士がくっついて米欧露のキリスト教神聖同盟が構築されつつあると観念されれば、イスラーム世界としての自意識がネガティヴな方向に刺激されて、中東には政治的な疎外感・閉塞感が蔓延することになる。結果として、冷戦的束縛からの解放や権威主義支配への批判よりはムスリムとしての防御的な心理規制が働いて、いわば旧来の体制へ引き籠って外の変化に目を瞑る状態に陥ったのである。1990年/91年の湾岸危機・戦争や2001年の9.11事件に対して、サダム・フセインやオサマ・ビンラディンをある種英雄視する感覚が中東アラブ世界で必ずしも珍しくない事実は、こうした背景の下に理解される必要があろう。</span></span></span></div>
	<div style="text-align: justify; text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'">&nbsp;</span></span></div>
	<div style="text-align: center; text-indent: 10.55pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'"><b>指導者なき革命</b></span></span></div>
	<div style="text-align: justify; text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'">1980年代末～<span>90年代の民主化「第三の波」が、冷戦の終焉に伴って喧伝された西側の政治的勝利がもたらしたものであり、中東アラブ世界はこれに固有の事情から「乗り遅れた」のに対して、「アラブの春」は西側の価値観である自由主義的市場経済の論理が波及し前景化したことの帰結だと考えることができる。しかもそれは、中東世界の政治史にあっては数十年に一度、場合によって一世紀に一度あるかないかの大変動と位置づけられつつある。</span>1950年代から60年代にかけてのアラブ民族主義昂揚期、各地で反帝国主義を掲げた革命やクーデターが繰り広げられた時代以来の構造的な変革だとする見方のほか、むしろ20世紀初頭から戦間期にかけての中東諸国体制の創出に匹敵するとする立場、あるいはさらに遡って欧州列強の膨張圧力に抗して出来した「アラブの覚醒」の再来ではないかと考える文明論的な見解など、この現象の歴史的解釈をめぐっては議論百出の状況にあり、一定の共通理解に達するにはなお数年を要するであろう。</span></span></div>
	<div style="text-align: justify; text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'">しかし、どのような解釈を採るにせよ、「アラブの春」の大きな特徴は、それがどの国においても象徴的な指導理念やカリスマ性を備えた指導者を欠いた形で展開したという点は認めざるを得ないであろう。従来の革命運動が社会主義や民族主義、あるいはイスラーム主義といった、それなりに明確なイデオロギーの下に、ナセルやホメイニなど求心力の強い指導者に牽引されて波及していった経緯とはまことに対照的である。同時に、そのような特徴そのものにこの現象の政治的波及の限界を見ることも可能であろう。フェイスブック革命と形容されることもある「アラブの春」は、その匿名性や没価値性がいわばアクセルとブレーキとの両面の機能を作動させているように見える。</span></span></div>
	<div style="text-align: justify; text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'">&nbsp;</span></span></div>
	<div style="text-align: center; text-indent: 10.55pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'"><b>権力による統制と権力に対する監視との狭間</b></span></span></div>
	<div style="text-align: justify; text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'">このことが、チュニジアやエジプトにおいて、革命後の移行期の中からイスラーム主義政権が登場してきた理由を説明する。両国において革命を起動させ、独裁者を放逐した主体、少なくともその中核部分は<span>SNSを手にした未組織の世俗的若年層であった。彼らの街頭行動に触発された格好で、大衆蜂起の状況が生まれ、旧体制が打倒されたのである。しかしながら、新たな秩序を構築する局面になれば、組織化された政治基盤を持ち、具体的な政策プログラムを提示できる既存の政治勢力が俄然優位に立つことになる。そうした政治勢力の中で、旧体制下において弾圧・疎外され、旧体制に組み込まれていなかったという不在証明を掲げることのできたイスラーム政党のアンナハダ（チュニジア）やムスリム同胞団（エジプト）が、いわば革命の果実をハイジャックしたという結果になったのである。</span></span></span></div>
	<div style="text-align: justify; text-indent: 10.5pt; margin: 0mm 0mm 0pt">
		<span style="font-size: 10.5pt"><span style="font-family: 'ｍｓ 明朝','serif'">そうだとすれば、無血革命を達成したこれら両国であれ、流血の内戦を惹き起したリビアやシリアであれ、あるいはイエメンその他未だ混乱から脱していない諸国であっても、さらにはこれまでそれぞれの事情で大きな混乱を免れている諸国においてさえ、そこに通奏低音のように内在している問題は共通しているように思われる。すなわちそれは、独裁支配に異議を申し立てて自由・人権・民主主義の実現を要求した未組織の世俗的若年層に対して、旧体制打倒後の実権を掌握した旧来の政治勢力や、あるいは転覆を免れている旧来の体制それ自体が、どのように応答するのかという問いにほかならない。新たに台頭して政権を打倒しあるいは動揺させた彼ら若年層は、これまでのように一方的に権力による統制の対象となることを潔しとせず、逆に権力に対する監視を強めるであろう。未組織であるために権力に自ら参加する手段や方途を欠いているにせよ、権力を破壊することについて彼らは一定の自信をつけている。未組織であるだけに、そうした彼らを捕捉し無力化することは著しく困難である。</span></span></div>
</div>
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    <title>「アラブの春」再考（１）</title>
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    <published>2012-12-21T05:26:22Z</published>
    <updated>2012-12-21T05:26:22Z</updated>

    <summary> 	アラブの春 	2010年末にチュニジアから発火し、瞬く間にアラブ世界全域に燃...</summary>
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        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div align="center">
	<b>アラブの春<img alt="池田先生.jpgのサムネール画像" class="mt-image-right" height="141" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/assets_c/2012/12/池田先生-thumb-140x141-3182.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="140" /></b></div>
<div>
	2010年末にチュニジアから発火し、瞬く間にアラブ世界全域に燃え広がった中東の「民主化」運動、いわゆる「アラブの春」の嵐は、2011年を通して吹き荒れた。年初にチュニジアのベンアリ大統領を国外亡命に追いやり、春にはエジプトのムバラク大統領を引き摺り下ろし、夏にはリビアの指導者カダフィ大佐を殺害、年末までにイエメンでもサーレハ大統領が退陣するなど、各地でそれぞれ数十年続いてきた独裁支配の看板をいとも容易く打倒して見せたのである。2012年に入っても、この嵐は荒ぶり続け、シリアは完全な内戦状態に陥って数万人の犠牲者を数えるに至り、しかもなお収拾の展望は立たないままである。</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div align="center">
	<b>ドミノ現象の遮断</b></div>
<div>
	<span>&nbsp;</span>これら一連の政治変動を、われわれはどのように把握すべきなのであろうか。「アラブ世界全域に」燃え広がったと記したが、しかし結果として体制が打倒されたのはチュニジアとリビアとの二カ国にとどまる。アラブ最大の国家エジプトでのムバラク退陣とその後のムスリム同胞団による奪権の経緯は大きな衝撃ではあったが、しかしこの政変を事実上規制し、政権交代に道筋をつけたのは旧来より最大の実力集団であった国軍であり、いわば「将校の共和国」としての「国体」それ自体は依然として健在である。これを体制打倒・変革と呼びうるかどうかは微妙なところであろう。イエメンでも同然で、退陣したサーレハは刑事訴追を免責された上、相変わらず与党指導者として隠然たる勢力を保っている。内戦でもはや政府としての正当性を失い、交戦団体と化したシリアのアサド政権は、それでも軍事的には圧倒的に優勢で、ここでも体制打倒が実現したとは言い難い。バハレーンでは、騒乱が繰り返されるものの、結果的には常に体制側に抑え込まれて変革にはつながっていない。他の諸国では若干の混乱が見られたものの、体制自体はそれぞれ安定を回復している。アラブ連盟加盟国22カ国中、単なる政権交代を含めても体制の転覆や大きな動揺を経験したのは6カ国に過ぎない。</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div align="center">
	<b>二つのベクトル</b></div>
<div>
	<span>&nbsp;</span>それでもなお、「アラブの春」がそれまで盤石と考えられていた各国の権威主義的支配の体制を根底から揺るがす契機を胚胎していた事実は見逃せない。アラビア語という同一言語に乗って、チュニジアに発した独裁拒否と自由化希求のメッセージは、燎原之火の如くアラブ世界を席巻した。そうした横断的なベクトルが6カ国まではドミノ現象を起こしたが、それを越えて波及しなかったのは、それぞれの国家の民族的宗派的構成や歴史的経験の相違、あるいはふんだんな石油資源に支えられた財政的余裕の有無といった個別的なベクトルの存在によるものである。フェイスブックやツイッターといった新たな社会的ネットワーク（SNS）が民族・部族・宗派という地縁血縁に支えられた伝統的なネットワークとどのような関係を切り結ぶかは、国情により異なる。また、ヨルダンやモロッコなど、相対的に王室の支配の正統性が浸透していたり、それなりに体制の「風通し」がよいと感じられていた国々では不満の噴出の態様や圧力が抑えられたのも事実であろう。サウジアラビアをはじめとする湾岸産油諸国では、支配の正統性は豊富な石油収入によるバラマキ政策によって補完され、結果的に「金で解決」する手法が奏功したとも言える。イラクやアルジェリア、あるいはレバノンなど、直近の過去に激しい内戦を経験した記憶がなお新しい国々では、そのような混乱の再来を忌避する社会共通の意識が作動したという側面もあろう。それら諸国においては、民主化の騒乱は経験済みということでもある。イスラエルの占領支配下にあるパレスチナでは、パレスチナ解放機構（PLO）主流派ファタハやイスラム原理主義政党ハマスといった直接の統治権力に対する異議申し立てよりも、とにかく異民族の占領から脱することのほうが優先順位は遥かに高いといった事情により、反独裁・自由化希求の運動も精彩を欠くものとなった。</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div align="center">
	<b>新たな問い</b></div>
<div>
	&nbsp;このように、アラブ世界を横断的に結ぶ権威主義体制への異議申し立ての動きは、それぞれの国情に由来する個別のベクトルによって遮断され、ドミノ効果は限定的なものにとどまっている。しかし「アラブの春」は、冷戦末期からポスト冷戦初期（1980年代～90年代）において世界各地で経済的開放・成長や技術突破・進展に支えられた民主化要求運動の高まりのなかで、権威主義支配が次々に崩壊していった時代から遅れること四半世紀を経て、中東アラブ世界も漸くそうしたグローバルな流れに追いつきつつあることを物語る。中東になぜ内発的な自由化や民主化の胎動が見られないのかという問いを中心に展開してきたこれまでの中東の政治研究は、今後はなぜこれだけ遅れたのか、なぜこの時点でそうした契機が前景化することになったのかという問いを立てることになるであろう。</div>
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    <title>ＥＵ（欧州連合）にノーベル平和賞</title>
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    <published>2012-10-25T05:27:20Z</published>
    <updated>2012-10-25T05:27:20Z</updated>

    <summary> 	 		　2012年のノーベル平和賞をＥＵ（欧州連合）に授与する、とノルウェー...</summary>
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        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">
	<div>
		<a href="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/kyoin/img/t_news2.png"><img alt="t_news2.png" class="mt-image-left" height="594" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/assets_c/2012/10/t_news2-thumb-555x594-2998.png" style="margin: 0px 20px 20px 0px; width: 193px; float: left; height: 213px" width="555" /></a>　2012年のノーベル平和賞をＥＵ（欧州連合）に授与する、とノルウェーのノーベル賞委員会が10月12日に発表した。第2次世界大戦後60年間にわたり、欧州の平和と和解、民主主義と人権の促進に寄与したことがその受賞理由である。</div>
	<div>
		　ＥＵが発足したのは冷戦崩壊後の1993年であるが、その起源は1952年に設立された欧州石炭鉄鋼共同体（ＥＣＳＣ）に遡る。70年の間に3度の戦禍を欧州大陸にもたらしたドイツとフランスの対立を克服するために、当時主要産業であり、独仏対立の原因であった、石炭・鉄鋼資源を超国家的な機関により共同管理することで、独仏和解をもたらしたことがＥＵ統合の出発点であった。その後、紆余曲折を経ながら、1958年には欧州経済共同体（ＥＥＣ）と欧州原子力共同体（Euratom）を設立し、1967年にそれまでの3つの共同体を併せて、ＥＣ（欧州共同体）に発展した。冷戦崩壊後は、そのＥＣを発展させ、マーストリヒト条約により現在のＥＵが設立されることになる。</div>
	<div>
		　授賞理由の最大のポイントは、ドイツとフランスのナショナリズムを克服し、欧州大陸に平和と経済的繁栄をもたらしたこと、欧州大陸に民主主義制度と基本的人権の尊重を広めたことにある。南欧のギリシャ、スペイン、ポルトガルはそれぞれ、独裁体制から民主主義国家に移行してから当時のＥＣへの加盟を認められたし、冷戦構造崩壊後は、中・東欧の旧共産圏の諸国がＥＵへの加盟を目指すことで、欧州大陸全域に、民主主義と人権の概念が定着していった。欧州はＥＵ統合と共に、対立と戦争の大陸から平和の大陸へと変貌したのである。</div>
	<div>
		　昨今ＥＵは、ギリシャの債務危機に代表されるような経済・財政危機に陥っており、マスメディアにおいてもＥＵは破綻の危機にあるといったマイナスの報道が多い。ノーベル平和賞の授与で、ＥＵ諸国が今一度団結を取り戻し、欧州大陸の平和と経済的繁栄の維持に寄与することをノーベル賞委員会が期待している部分が大きいとも考えられる。</div>
	<div>
		　実際、ＥＵには混乱が絶え間なく続いている。今回のノーベル平和賞の受賞に際しても、誰が12月10日の授賞式に参加するかで揉めている。ＥＵ常任議長のファンロンパイ氏、ＥＵの執行機関である欧州委員会委員長のバローゾ氏、それに欧州議会議長のシュルツ氏の3名が授賞式に参列する方向で一旦は調整にはいったが、誰が受賞演説をするかは未定である。ファンロンパイ氏はＥＵ加盟国の首脳が集まる欧州理事会の常任議長であり、ＥＵの代表格の一人である。バローゾ氏は、欧州統合を牽引し、超国家的なＥＵの象徴である欧州委員会の長である。シュルツ氏は、ＥＵ市民が直接普通選挙で選出する欧州議会の議長である。誰もが、我こそはＥＵの代表者であると名乗りを上げている状況にある。正に、ＥＵの複雑な多頭性システムを象徴している。</div>
	<div>
		　ファンロンパイ氏は、10月18日にツイッターで、ＥＵの全首脳が授賞式に参加することを呼びかけるなど、混乱の収拾を図ろうとしている。ところが、ＥＵ統合に比較的冷めている加盟国である英国のキャメロン首相は、ＥＵのみが欧州の平和に貢献したわけではない、として参列を見送る姿勢を示している。果たして、12月10日の授賞式に誰が参列し、誰が受賞演説を行うのか。そんな問題でもＥＵは揉めに揉めているのである。</div>
	　ユーロ危機や財政危機が叫ばれる現在のＥＵは、さらに大きな混乱の中にあると言っても良い。しかしながら、ＥＵは様々な危機をこれまで幾度となく乗り越え、その度に結束を強めてきた。今回のノーベル平和賞の受賞がそのようなＥＵにとって追い風となり、この困難な時期を乗り越えることを筆者も期待している。</div>
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    <title>「臨床心理士」養成教育に携わって</title>
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    <published>2012-09-04T08:32:32Z</published>
    <updated>2012-09-04T08:32:32Z</updated>

    <summary><![CDATA[ 	「臨床心理士」養成教育に携わって 	&nbsp; 	　東洋英和女学院大学大学...]]></summary>
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        <name>大学院ブログマスター</name>
        
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        <![CDATA[<div>
	「臨床心理士」養成教育に携わって</div>
<div>
	&nbsp;</div>
<div>
	　東洋英和女学院大学大学院人間科学研究科臨床心理学領域は、心理学的な対人援助に関する教育研究をめざして設けられ、（財）日本臨床心理士資格認定協会による「臨床心理士」試験受験資格取得のための第１種大学院の指定を受けている。当然のことながら本領域への入学者は、「臨床心理士」の養成をめざした教育を受けることになる。ここにおける養成教育には、多くの大学院でなされるような研究を中心にした教育とは異なり、心理臨床活動（実習）が含まれる。その活動には、知識に裏打ちされた体験あるいは体験に裏打ちされた知識の習得が不可欠なものとされる。臨床心理学が、体験の学問とも言われる所以はここにある。</div>
<div>
	　自身の体験にかかわる学びの過程にある者は、心理的な苦痛を避けて通れない。実際入学者の多くが、心理療法、精神病理、人格理論、心理検査などについて学んだことと、現実に我が身が体験している臨床実践が結びついていないということに気づかされる。院生の気づきのありようには、２つのタイプがあるように思う。心理臨床実践を、得られた知識に従ってとにかく実践する者と、自身の感性のままに実践する者である。いずれの場合にも、治療の失敗として体験された時、知識と体験が遊離していることに気づかされる。後者のタイプの者で、心理療法過程が治療促進的なものとなっている場合には、そうした気づきに至らないことがある。極端な場合には、セラピストには何が起きているのか理解されないままに治癒に至っている。ちなみに私は、英和の院生には、セラピストとしてこのような体験をしている者が、案外多いのではないかという印象を持っている。</div>
<div>
	　いずれにしても、知と体験が遊離しているという気づきは、私たちの心にとって心地よいものではない。できることなら何らかの防衛機制を働かせて、意識に昇らないようにしたいほどのものである。意識に昇ってしまったこの気づきに真摯に向き合うことのできる力を通して、知織を支える体験が体験を支える知識が習得されることになろう。我々教員は、心の葛藤をかかえている者への心理的援助をする「臨床心理士」になろうとする者のこの辛い気づき体験を、支え見守っていきたいと思っている。こうした努力の結果習得された院生のセラピストとしての力量は、毎年秋に行われる「臨床心理士」試験の、全国平均を大きく上回る高い合格率に反映されている。</div>
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    <title>いまどきの女子大で教える</title>
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    <published>2012-03-21T08:02:33Z</published>
    <updated>2012-03-21T08:02:33Z</updated>

    <summary> 	　2008年にＵＮＨＣＲ（国連難民高等弁務官事務所）駐日代表を最後に28年の...</summary>
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        <![CDATA[<p>
	<img alt="takizawas.jpg" class="mt-image-right" height="251" src="http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/k_i_column/kyoin/img/takizawas.jpg" style="margin: 0px 0px 20px 20px; float: right" width="196" />　2008年にＵＮＨＣＲ（国連難民高等弁務官事務所）駐日代表を最後に28年の国連勤務を終え、2009年の4月からは東洋英和女学院大学で、国際機構論や移民・難民問題を教えている。女子大で教えているというと友人などにうらやましがられるが、実際、桜が満開の春、色とりどりのスカートを翻して歩く女子学生に囲まれたり、大教室で200人以上の女子学生の視線を一身に集めると（服装をチェックされる）、竜宮城もかくあらんか、と思ってしまう。着任早々に教員の集まりでそういう発言をしたら、全教員の視線を一身に集めた。竜宮城はセクハラ的、時代錯誤的な不適切発言なのだそうだ。<br />
	　東洋英和はいわゆる「御嬢さん大学」でミッション系の女子高から来る学生が大半だ。1990年前後に生まれた彼女たちは、経済的には苦労知らずで育ってきた。加えて「ゆとり教育」もあって比較的のんびりとした環境で、素直に育ってきたという感じの学生が多い。数多い推薦入学者は、厳しい受験競争も知らない。ある学生が、自ら「私はすくすくと育ちました」と言ったのに驚いたことがある。<br />
	　学バスに乗り、学生の会話を耳をダンボにして聞いていると、彼女たちは「ＢＢＣ」に強い関心があることが分かる。つまり「バイト、ボーイフレンド、サークル」だ。早くして父親を亡くし、生活と勉強のためバイトを強いられた元「苦学生」の私としては、遊ぶためのバイトは極力減らし、「勉強、ボーイフレンド、サークル」のＢＢＣをして欲しいと思うのだが、いまどきの女子学生に「苦学生」という言葉やイメージは死語だろう。　<br />
	　大学進学率が５０％超え、「大衆化」した大学は、大学進学率が2割前後だった私たち団塊の世代時代のそれとは大きく違っている。文科省の方針で、1コース半年間の授業回数は15回、休講は原則として補講でカバーすることになっている。休講になると皆が喜んだ時代は去った。殆どの大学で起きているようだが、「ゆとり教育」の予期せざる効果もあって、学生の平均的学力の低下は著しい。基礎知識や数学の能力がないものが多いから、経済学や法学などの科目は「難しい」として学生に敬遠される。<br />
	　女子学生は一般に授業に真面目に出席するが、1、2年生の授業では女子高の雰囲気も漂う。1年生の授業は「高校4年生」を教えるつもりになった方がいい。私は、毎回の授業の終わりに、学生にＢ５で１ページのコメントを書かせるのだが、噛み砕いて図解入りで説明しないと「今日の授業は難しかったです」といったコメントが出てくる。理解できなかった自分よりも、わかり易く説明しない先生の方に責任がある、という発想らしい。確かに、教師が教育というサービスを提供する「サービス・プロバイダー」であると考えれば、学生が理解できない授業をする教員には「サービス瑕疵責任」があることになるだろう。<br />
	　さて、外観は華やかな女子大生だが、3、4年の「就活生」の内面は灰色だ。「就職氷河期」と言われる厳しい就職状況を彼女たちは肌で感じている。「バブル経済」などは古語辞典に載りそうな用語になってしまい、就職難はこの先もずっと続くだろうという見通しのため、2年生以下の学生も不安を持つ。「就職氷河」は女子大では特に冷たく厚い。緩やかな生活に慣れ、競争には不慣れな女子学生は、初めて経験する厳しい就職戦線で、他大学の学生、特に男子学生と競い合うことには自信がない。最近では、グローバル戦略を採る企業は候補者選別を厳しくして、採用も国際的に行う。ハングリー精神に燃え、かつ英語もできる中国人などの留学生と競争するとなると、お嬢さん学生はなおさら怖気づく。<br />
	　そのような中で、彼女たちに刺激を与え、結果的に「喝」を入れることになっているのが難民問題や貧困問題の授業だ。祖国からはじき出され、受け入れ国でも安住の地を見つけれない1500万人に上る世界の難民の境遇や、小学校にも行けない7000万人とも言われる「児童労働者」の実態は、彼女たちとっては大きな驚きだ。今まで空気のように意識していないで来た自分の生活がいかに恵まれたものであったか、国際的には彼女たちの生活は例外中の例外に属することに初めて気付く。自分の弟や妹の年代の子供たちが、厳しい境遇にも関わらず頑張っている姿を見ると、彼女たちは「日本に生まれてよかった」と思い、大学まで出してくれた親に感謝の気持ちを持つようになる。自分の緩んだ生活態度を大いに反省し、罪悪感を感じる学生もいる。<br />
	　時々あるのが、「就職などのことで不安になり、心配していた私の悩みなんてちっぽけなものだと気が付きました。学校に行きたくても行けない子どもたちのために、私は授業中に居眠りしたりせず、もっと勉強します」といったかわいいコメントだ。そして一部の学生は、「私にできることをしてみたい」、と行動に移る。手軽な募金をするものが多いが、ボランティア活動に参加したり、ＮＧＯ活動を始める学生もいる。2011年には3つの学生ボランティア団体が学内にできた。<br />
	　その意味で、貧困問題や難民問題を学ぶことは、彼女たちの人生に小さからぬ影響を与える。日本の国境の外で起こっている地球規模の問題を知ることが、ＢＢＣ的生活に安住していた自分の生き方を反省し、自分の小さな世界から外に飛び出してゆく勇気につながってゆく。<br />
	　今20歳の女子学生の４分の１は生涯未婚のまま、という国立社会保障・人口問題研究所の推計があるものの、東洋英和女学院の卒業生の多くは20数年後には母親となっているだろう。学院のモットーは「敬神奉仕」だが、私の願いは、母親となった彼女たちが、日本が世界の中で置かれた立場をいつも意識していることだ。中学生ぐらいになった娘に、「お母さん、テレﾋﾞニュースでやっていた.&hellip;って何のこと？」と問われた時、それなりに説明できるような視野が広い女性になることだ。そして、人の痛みに敏感で、弱い立場にある人々のために何かをする行動力もある女性に育って欲しいと思う。<br />
	　大学で教えられる知識の量など知れたものだし、すぐ陳腐化する。大切なのは、教員が学生に社会への目、世界への目を開く「きっかけ」を与えることだと思う。人が伸びることを信じ、その「きっかけ」を与えることの大切さは、大学だけでなく、大学院や小中高など教育一般に当てはまることではないか。</p>
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