大学概要

4月18日 礼拝奨励37

自分のように愛しなさい

マルコによる福音書第1228節~31


 入学式以来、ことあるたびに聞かされてきたでしょうから、ここで革めて確認する必要もないでしょうが、大学を含めてこの東洋英和女学院の建学の精神、スクールモットーは、「敬神奉仕」という四文字の標語に表現されています。

 「神を敬い、隣人に奉仕する」

 この標語の出典が、先ほど読んだ本日の聖書の箇所にほかなりません。ここでは、「主である神を愛しなさい」ということと、「隣人を愛しなさい」という二つの掟を守るように求められています。ですから、ちょっとみると二つのことしか命じられていないように見えます。けれども、よくよく読んでみると、もっと多くのことが語られているように思います。本日はそのなかでも、二つ目の掟、つまり「隣人を自分のように愛しなさい」という部分の「自分のように」ということを考えてみたいと思います。


 これを論理的に解釈しますと、「自分を愛することは簡単であるが、隣人を愛することは困難である」、したがって「自分を愛するように」、より難しい「隣人への愛」を実践することが大事なのだ、というほどの意味になるでしょう。しかしながら、「自分を愛する」ことはそんなに簡単なことなのでしょうか。「自己嫌悪」という言葉があることからもわかりますが、私たちは必ずしもいつも自分を愛しているわけではないはずです。そもそも、どんな自分だったら愛するに値する自分なのでしょうか。


 「ありのままの自分」という言い方があります。それが強調されるのは、そうした「ありのままの自分」を受け入れたり、愛したりすることが難しいという事実の裏返しなのではないかと思うのです。向上心とか、自己練磨とか、自己超克といっても、それは要するに「私は今のままの私を愛せない」、あるいは「私は私によって愛される資格のある人間ではない」という自己評価の低さの上に成立しているのであって、わたしが愛せるような私になりたいと思って一所懸命努力を重ねるということなのではないでしょうか。


 もとより、ここで「自分を愛する」といっているのは、いわゆる自己陶酔を意味するナルシシズムとは異なります。神から生命を賜ったかけがえのない存在としての自分を認識し、とりあえずそのような自分を肯定する。そこから「自分を愛する」ことが始まります。そこからしか始まらないのです。しかしながら、なかなかそのような仕方で「自分を愛する」術を自然に身につけている人は少ないように思えます。むしろ、他人よりも優れた能力や技術(権力・威信・財貨・知識・技芸etc.)を身に付けることによって、「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」という遠回りな仕方でしか自分を愛することのできない人間の方がずっと多いのではないでしょうか。もちろん、本当に「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」ほどの能力や技術にたどりつける人間はごく少数にすぎません。競争原理の作動しているいまの時代には、どこまで行っても、上には上がいるからです。そのように考えると、結局、この社会のほとんどの人間はうまく自分を愛することができないでいるのだろうと思います。


 私たちの生きているこの時代は「自分を愛すること」がきわめて困難な時代だと言わなければなりません。うまく自分を愛することができない人間が、「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるのでしょうか。そのように考えますと、「敬神奉仕」というスクールモットーには、実は「神を敬うこと」「私を愛すること」「隣人に奉仕すること」の三つの意味内容が含まれているのではないかと思うのです。


学長 池田 明史